雑文

思いついたことを

暴走老人プーチン、死ね

2月24日、ロシア軍がウクライナに侵攻した。そのずっと前からロシア軍は国境に軍隊を何万人も配置していて世界中がその成り行きを見守っていた。まさか侵攻するはずはないという意見もあったが、これだけの数の兵隊を何ヶ月も駐留させて何も達成しないならばプーチンはただの間抜けだ。必ず侵攻するはずだと僕は思った。

でも、本当に進行して戦闘が始まり、少なからぬ人々があっさりと死んでいくのは体に応える衝撃だった。僕はそれからしばらくの間、本も読めず大好きだったネットフリックスみ観れなくなった。頭がそちらに向かず、何も入って来ないのだ。

毎日、少しの空き時間があればネットで戦況をチェックした。ニュースサイトにツイッターYou Tubeなど情報は無限に入ってくる。仕事と寝ている間以外はずっと戦争のことで頭がいっぱいだった。

なぜそれほどロシアの侵攻がショックだったのか。それはもう人類がおおよそ卒業したと思われた他国への露骨な侵略戦争が22世紀の今も続いているというのが一つ。そしてこれが第三次世界大戦につながる恐れが二点目。そして何よりもロシアとNATO軍の間で核戦争が起こる可能性が十分あることだ。

ウクライナは僕の生活からはかなり遠い。戦火が直接及ぶことはない。でも、本格的な核戦争となれば人類は絶滅するかもしれない。日本には核爆弾は飛んでこなくても、核の冬の気温低下で食糧生産ができなくなり、僕たちは餓死するだろう。最後は人肉まで食べる悲惨なことになるだろう。

まさか2022年の現在、リアルに核戦争の恐怖を味わうことになるとはまったく想像もしていなかった。僕は侵攻が始まる前は気候変動や漠然ともっと年をとってからの自分の生活の心配をしていた。でも、数十年先の未来を迎える前に核戦争でこの世が終わってしまうかもしれないのだから、それどころではなくなった。2月24日から時計が止まったような感覚である。

ロシアがウクライナに進行してもロシアが得るものはほとんどなく、ロシアは経済的な損失、そして何よりも世界からの悪い評価によって今後、悪の帝国ロシアは激しく落ち目になっていくのは間違いない。

それでも無理やりな侵略戦争をロシアがしたのは独裁者プーチンがその決定をしたからである。69才という年齢、コロナ禍で人と会う機会が極端に減ったのが妄想チックで独善的な決定につながったらしい。コロナ禍は歴史を変えたが、このロシアの侵攻が最大のものだろう。

通常、歴史は様々な社会的な要因で決定されていくものだが、今回は暴走老人プーチンの個人的な病的な妄想によって人類の危機を迎えてしまったと僕は感じている。プーチン、死ね! 暗殺、自殺、自然死でもなんでもいい。とにかく死ね!

母親思いのヨシオさん

僕は40才くらいの頃、生活費に困っていたので障害者介助をやっていた。当時、二人の介助をやっていて、水、日曜日の泊まりがタケシ、日曜日の日中がヨシオさんだった。

ヨシオさんは当時、50代半ばだったと思う。生まれたときから脳性麻痺で、若い頃は歩くことも可能だったのが、加齢とともに車椅子で移動するようになった。僕が会った頃はトイレとかベッドなどへの移動以外はずっと車椅子を使っていたと思う。

日曜日の朝、10時に僕はヨシオさんの家を訪ねた。まずやることは前の晩にヘルパーさんが作りおきしておいてくれた朝食の介助。麻痺が強くてスプーンを自身で扱うのが難しかったのだ。それから部屋の掃除。昼からは都内の街に出掛けたり、近所を散歩したり、ときには小田原まで遠出したこともあった。

ヨシオさんは僕が加入していた障害者の家にヘルパーを派遣する事業所の利用者の中で高齢の方だった。ヘルパーは若い人が多かったので、話しにくい年配の人よりも若い障害者を希望する人が多かったように思う。僕の方は初めての人とあまり打ち解けることも笑顔を作ることもできず、あまり障害者に好かれる方ではなかった。その点、ヨシオさんは介助者に対して相性とか人間関係を求める人ではなく、やることをやってくれれば誰でもOKだったから僕としてはありがたかった。

ヨシオさんは80代後半のお母さんと二人で暮らしていた。生まれたときから一緒に暮らしている親子だから遠慮なく悪口を言い合う仲だった。でもヨシオさんには言語障害があってどうしても話すスピードはゆっくりで不明瞭だったから、口が達者なお母さんの方がいつも優勢でヨシオさんはよく「うるせー、クソババア黙れ!」と怒鳴っていた。

僕とヨシオさんは相性が良かった。それほど会話をしたわけではないが、無言でもお互い苦しくなかった。また言語障害がやや重めでお母さんが聞き取れないときも僕は割と簡単に聞き取ることができた。(言語障害を聞き取れるかどうかの相性はけっこうある。)またヨシオさんはパソコンを勉強中でわからないことが多かったので、僕が助けることができて喜んでもらえた。

ヨシオさんの介助を2年くらい続けていた頃だったろうか、高齢のヨシオさんのお母さんが具合が悪くなって入院した。具合が悪くなったといっても、もう90前後だったので全てが具合が悪くなっていたし、今後、良くなる見込みはなかった。

それまで僕とヨシオさんは街に買い物に出かけるようなことが多かったのが、お母さんが入院してからは毎週、病院にお見舞いにいった。一口に「お見舞いに行く」と言っても車椅子でバスに乗るのでけっこう大変だった。どうやって乗り合いバスに乗るかというと、バスが全体的に傾いて、スロープがスルーっと出てくる。車内に入ると、障害者の優先席を畳んで場所を空けてそこにロープで車椅子を固定する。

バスの運転手さんもめんどくさかったと思うが、バスは障害者にとって非常に重要な移動のための手段なのでそんなことを遠慮するわけにはいかない。

病院は老人専用の病院だった。病院といってもどこかを積極的に治療をするわけではなくヘルパーさんが下と栄養の世話をするだけの施設だったと思う。

エレベーターに乗って病室がある階に着いてドアが開く。日曜の昼の病室なのにフロア全体がシーンとしている。人工呼吸器か何かの機会の音だけが規則的に響いている。何歩か歩くとほのかに糞尿と消毒液の匂いがする。廊下と病室全体にその匂いが充満している。病室には高齢の女性ばかり30人くらいが寝ていて、誰も一言も発しないし、テレビや新聞を見るようなこともなかった。ものすごく異様な光景だった。

ヨシオさんはお母さんがいるベッドに寄り「母ちゃん、俺だよ、分かるか?」と言った。返事がないので何回か同じことを繰り返した。するとお母さんは「ヨシオか? お前のことがわからなくなったらお終いだよ」と小さな声で言った。ヨシオさんは嬉しそうに笑った。

僕とヨシオさんは毎週、日曜日にこの病院に行った。最初は少しは喋ったお母さんは次第に何も答えなくなった。

ある日、ヨシオさんは言語障害で苦労しながら言った。「この前、病院からそろそろ他の病院を見つけてくれないかって言われたんだよ。どうやら三ヶ月くらいはいいんだけど、それ以上、入院してると国からの収入がすごく減らされるらしいんだ。でも他の病院にあてなんてないし、どこか遠くに転院すると俺が病院に行けなくなるしな。」

そういう話は僕も聞いたことがあった。そのときすでにお母さんが入院して半年くらい経っていた。病院も障害者の息子さんと二人暮らしということで配慮をしてくれていたのだと思う。ヨシオさんには他に二人の兄弟がいたが、見舞いにくることはおろか日頃、連絡を取ることもなくなっていたので、お母さんの入院の問題は全部ヨシオさんが引き受けるしかなかった。

ある秋の日の日曜の夕方、病院から帰ってきてヨシオさんが言った。「母ちゃんがいなくなって一人暮らしになってさ、正直言うとこんなに寂しい思いをするなんて思ってもみなかったよ。」こんなに思いつめたような顔をしたヨシオさんを見るのは初めてだった。

「生まれたときからずっと一緒に暮らしてたんですもんね。そりゃそうですよ」僕は言った。

「こんなにつらい想いをするなら一緒に住まなきゃよかった。俺さ、今すごく、すごく・・・つらいよ、寂しいよ」と泣きながらヨシオさんは叫んだ。

50代のおじさんが母親がいなくなってこれほど感情を爆発させることに僕は戸惑って何も答えることができなかった。介助者としては、ただ気持ちを聞くだけで精一杯だった。多分、それで良かったのだろう。

それからしばらくして、僕はヨシオさんの介助を辞めた。その何ヶ月か前から体がきつくなってきていたのが理由だった。ヨシオさんは僕が辞めるのを残念がってくれた。

数年後に介助者仲間の知人に聞いたのだが、僕がヨシオさんの介助を辞めてしばらくしてお母さんが亡くなった。それからヨシオさんは気難しい人になった。ささいなことで介助者をキツく叱り、話しかけづらい人になったという。きっとお母さんがいなくなったのが寂しくてたまらないのだ。

ヨシオさんがそんなに怒りっぽくなっている姿を僕には想像できない。僕にとってヨシオさんは今でも優しい、よく笑う母親思いの優しいおじさんである。

障害者Aさんの話

僕は大学4年生の頃から5年くらい一人の障害者の風呂介助をしていた。その障害者のAさんは筋ジストロフィー症に似た症状で、全身の筋肉が徐々に減っていく病気だが、心臓は無事でこの病気が原因で死ぬことはないらしかった。

日頃、Aさんは車椅子に乗って障害者団体の仕事をしていた。食事をするにはスプーンを右手で持ち、その右手を左手で支えることでなんとかしていた。トイレはその都度、誰かに支えてもらって用を足していた。でも風呂に入るにはしっかりと誰かの介助が必要ということで障害者団体から僕が派遣されていたわけだ。時間にすると1時間半くらいである。

なんで僕がそんな障害者介助をやったかというと、大学の同じクラスに障害者団体で働いている人がいて、その人から誘われたのだ。当時、僕は真面目で、好奇心旺盛で社会派を気取っていたので、渡りに船の話だった。

確か月曜日の夜7時半に僕は毎週、Aさんの家を訪れた。まず服を脱がせて頭からシャワーをかけてシャンプーをする。それからたっぷり石鹸をつけて全身を洗う。ホイストという一種のクレーンみたいなもので脇と膝裏にロープみたいなのをかけて持ち上げ、リモコンで風呂桶まで体を運ぶのである。

風呂に入っている時間は何もすることはないから、僕はAさんといろいろな話をした。僕は自分の学校の話やバイトの話など若者らしい出来事を話したと思う。Aさんは彼が若い頃の話をポツポツと話してくれた。足が悪かったもののなんとか自力で歩けたので学生運動に参加したとか、若い頃の日記を保存してあるが読むのがつらいのでノートをテープでぐるぐる巻きにしてあるとか、糖尿病の友人が病状が悪化して全身に痒みが出たのをダニのせいかと思って放置していたのが元で死んでしまった、病院にお見舞いにいったらその友人が「俺はこれで死ぬんじゃないかと思う、すごく恐い」と言っていたのが今でも忘れられないとか。

Aさんには子どもが二人いた。当時、上の男の子は中学生で下の女の子は小学生だった。お子さんが高校受験をするときは「自分が受験する方がずっと楽ですよ」と笑って言っていた。

中には「どうして家族がお風呂に入れないんだ」という意見の人もいた。本当はAさんもその方が楽だったかもしれない。でも、障害者の介助の体験をいろんな人に積ませるのもAさんの役割だった。

最後の方は僕が本格的に仕事が忙しくなってしまったので、申し訳ないことにちゃんと挨拶をしないままAさん介助を辞めてしまった。

あれから20年以上の月日がたった。Aさんはご存命なら80才近いことになる。僕には詳しく話してくれたわけではないが、鬱病の奥さんのこと、自分の障害と加齢のこと、子どもたちの将来、障害者団体の運営の問題などなど、悩みごとはたくさんあったはずである。

今でも時々、ふとした折にAさんのことを思い出す。風呂に浸かって世間話をしながらこぼした、青春の日々の様々な苦悩、子どもへ愛情、障害を持つことの苦しみ。そういう話がその後の僕の人生の糧になったのだと思う。今ではAさんに感謝の気持ちでいっぱいである。

同級生Y子の話

最近、幼稚園から中学校まで同級生だった地元の友人とLINEでつながった。彼は僕が唯一、連絡をとっている地元の友人である。名前をヒロシとする。

それまでは年に1、2回程度、メールで近況を報告しあっていたが、LINEになるとチャット方式なので連絡する頻度がかなり頻繁になった。

ヒロシは地元のスーパーに勤めている。労働時間が長いのとなかなか休みが取れないのが悩みである。勤め先の店舗は数年に一度変わるのだが、一時期、僕たちの地元の店舗にいた。それで同級生がときどき来店して話をしたことがあるらしい。

それによると同級生と分かって話をした相手が5、6人いた。しかし、もう卒業してかなり経っているので会っても誰だかわからないまますれ違っている可能性もかなりあるので、実際はもっとたくさんの同級生と会っているだろう。

ヒロシが聞いた話では、同級生の多くは結婚していて、子どもがいたりいなかったり。40代で孫が生まれた者もいる。また独身者もそこそこいるようだ。

僕もたまにお盆や年末に帰省したときにスーパーにいって4人くらい同級生を見かけた。気後れして話しかけることはできなかったが、中には中学生の頃に僕が大好きだった女子もいた。顔に大きなシミができていて小学生くらいの子どもを連れていた。30年ぶりくらいに見かけたわけだけど、不思議に感慨はなかった。

ヒロシから聞いた同級生たちの近況の中で一番気になったのがY子のことだった。Y子は中学のときに2回くらい同じクラスになって、そこそこ仲が良かった。
Y子は僕たちが小学校4年生くらいの頃に兄を亡くした。Y子の兄は通学中のある日、不幸な事故で亡くなった。自動車事故ではなく、自身の不注意による信じられないようなあっけない死に方だった。

僕たちはみんなそのことを知っていたから、同じクラスになってからも、なんとなくY子がそのことでまだ落ち込んでいるのではないかと思って心配していた。
Y子は僕がムキになって怒っていると、よくおかしそうにクスクス笑っていた。昼休みに弁当を班ごとに机を向き合わせて食べていたのだが、ある日、僕は一人の班員に怒っていたので、一人だけ窓に机を向けて食べていた。そのときもY子はおかしそうに、いや今思えば幼児を見る母親のような笑顔で僕をニコニコして見ていた。
大人になった今から考えてみると、家族が亡くなって数年で立ち直れるわけはない。Y子は周囲から同情されるのが嫌で明るく振る舞っていたのかもしれない。そういう面もあったのだろう。

スーパーでヒロシが聞いた話によると、Y子は20代で結婚して今は隣町で暮らしており、子どもは今では20代後半くらいになっているらしい。それを聞いて僕はうれしかった。Y子は家族を築いて幸せに暮らしているようだ。

実は僕はY子のことがずっと気にかかっていた。正直いえば、けっこう心配していた。僕が40才過ぎくらいまで実家の母は牛乳配達をしていたので、帰省するたびに僕は配達を手伝っていた。その配達コースの途中でY子の実家の近くを通る。そのたびに僕はY子の家の前まで行き、どうなっているか確認した。僕たちが20代の頃、Y子の家の前には軽自動車が停まっており、中には男性歌手のカセットテープがあった。これはY子の車に違いない。30代中盤になるとY子の実家の玄関に手すりが設置された。これは母親のためのものだろう。もちろん、これだけで全体のことがわかるわけではないが、ちゃんと生活が続いていることはわかった。それだけでちょっと安心した。

ヒロシからY子のことを伝え聞いてから一年くらい経った頃、帰省した折に母と話をしていた。年老いた母との会話の内容はどうしても、昔話や共通の知人の話になる。僕の実家の近くに兄の同級生の家があり、その人が最近、帰省してお墓参りをしていったという。その墓地は僕の父も眠るすぐ近所の寺である。でも兄の同級生の家の墓はそこにはない。よくよく聞くと、兄の同級生は小学6年のときに亡くなったクラスメートの墓に今でも毎年、お参りにしているという。その「クラスメート」とはY子の兄のことである。

更に母から話を聞くと、Y子の兄が不幸な事故であっけなく亡くなった後、お父さんは落ち込んで鬱病になった。それで結局、事故から10年くらい経った頃に電車に飛び込んで自殺をしたという。事故から10年ということは僕たちが二十歳くらいの頃だ。

Y子の不幸は兄が事故で亡くなっただけでは終わらなかったのだ。僕は知らなかっただけで、その後も大変なことが続いたのだ。そのことに僕はかなりショックを受けた。実家の前の車に歌謡曲のテープがあるだけで元気にやっていると思い込んだ自分を呆れた気持ちで思い出した。

人の命はほんのささいなことで失われ、更にその悲劇が連鎖することもある、というのは僕も知っている。でも、優しいY子にこんな不幸が続いていいはずはない、あまりに不条理だろうと僕は思った。今からでもどうにかしてY子と連絡をとってお悔やみの言葉を送ろうかとも僕は思った。でも、お父さんが亡くなってからすでに四半世紀以上経っているので、さすがにやめておいた。

Y子はそれから結婚をして子どもを大学に通わせた。不幸は続いたが、そのことに負けずに幸せな家庭を築いたのだろう。いつか、死ぬ前にY子に会っていろいろ話をしてみたい。

十五夜事件

83才の康夫は5年前に自動車の免許を返納した。その何年も前からときどき高齢者が人身事故を起こしているニュースを見て不安に思ったからだ。特に子どもでも轢き殺してしまったらたまらないじゃないか。

それから康夫は電動自転車(12万円もした)に乗ってあちこちで出掛けた。日々の買い物や役所での手続き、散髪や友人の家に出かけるときなど、腰が痛くて歩くのがしんどい康夫には欠かせない足になってくれた。

毎日、散歩のように自転車にのって散策をした。走るコースは大体、同じだった。街を走っていると、高齢者がグループになって散歩しているのによくすれ違った。なんでも地域の散歩会があるらしかった。

その中に康夫と同じ年のタケシがいるのに康夫はすぐに気づいた。タケシは小学生の頃、体が人一倍大きくて圧倒的なガキ大将だった。子どもの頃、康夫はタケシのことが他の子と同じように恐ろしく怯えていた。

あれは康夫とタケシが小学5年生のときの十五夜の日だった。まだ戦後間もない貧しい時代である。当時、村では十五夜の夜には縁側や玄関のあたりに団子をおそなえしていた。子どもたちは各家をまわってその団子を一つずつもらっても良いことになっていた。まだ食糧難が続く時代だったこともあり、子どもたちは団子を食べるのを毎年とても楽しみにしていた。

またお供えは団子だけでなく小銭もあった。小銭は置いていない家もあったが、かなりの家で小銭も置かれていた。

その年の十五夜の夜、ガキ大将のタケシは各家を一通りまわった後に子分の子どもたちは神社に集めた。そして団子には手をつけなかったが、小銭はタケシが巻き上げてしまった。本当は皆、タケシに渡したくはなかったが、そんなことは恐くて言えなかった。

でも中にはそのことを親にこぼす子もいた。団子だけならまだしも、現金を人から奪うのは子どもとはいえ悪質だということになった。タケシは親父から大きなげんこつをもらった。それだけなら良かったのだが、「来年もこういうことは起こるかもしれん」と親たちが話しあって、それ以降は小銭を置くのは取りやめになった。

それは子どもたちにとって大問題だった。ろくに小遣いなどなかった時代のことだったから十五夜での現金収入はとても貴重だったのだ。だから学校でもその話題でもちきりでみんな大ショックを受けていた。

そのことを今でも康夫は忘れていない。老人たちがグループで散歩している中にタケシの姿を認めると、あのときの絶望感と怒りが蘇ってくるような気がした。それ以前にもたまにタケシと会うと気さくに話しかけてこられたが、いつも適当に話を合わせるだけでまともに相手にしたことはない。あんな奴と一緒に散歩をするのはよそ者だけだ。

康夫はその十五夜事件を孫のユウトに話したことがある。康夫の怒りを初めユウトは冗談かと思った。幾つか祖父に質問をしてみたが、祖父の険しい表情からするとどうやら本気のようだった。小学生の頃の子どもらしい事件を老人になってまで怒りを抱き続ける人がいることにユウトには理解が追いつかなかった。

「そのタケシっていうおじいさんを僕も見てみたいな。どんな人なんだろ。よくここら辺を散歩してるなら会えるかな」とユウトが言うと、「あいつはこの頃、散歩してないよ。どっかの病院にいるか死んだんだろ」と苦々しく康夫は答えた。

困ったユウトは祖母を見た。祖母はただ小さくため息をついてお茶をすすった。

快楽を長く味わうにはその代償を払わなくてはならない

小説家の西村賢太が亡くなった。2月4日にタクシーの中で意識がなくなり、病院に着いたときには心臓が停止していたという。享年54才。

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僕は私小説は好きではないので彼の小説を読んだことはないが、風俗好きを広言するなどキャラクターが面白いのと僕と同年代ということで親しみを感じていた。

西村といえば糖尿病で肥満体型。タバコは一日100本吸い、年間365日タカラ焼酎を飲んでいたらしい。要するに健康のために何かを控えるようなことは一切せずに、食べたいもの・飲みたいもの・吸いたいものをその時にとっていた。風俗が唯一の趣味だったが、糖尿病だったということで恐らくEDだったろう。

今、世界は健康志向一色。かつてドラッグをやっていたロックスターまでジムに通ってワークアウトをする時代である。西村はそういう傾向が嫌いで、あえて露悪的なまでにその風潮に逆らって生きてみせたのだろう。

僕は子どもの頃は病弱で、小学生のときは特に喘息でとても苦しい想いをした。そのせいもあって、僕は病気が恐い。そのために僕は割と健康志向で食事は主に自炊、味噌や納豆などの発酵食品やナッツ類などを意識的にとっているし、筋トレやウォーキングもやっている。

西村のような人物からしたら「そこまでして長生きしたいもんかね?」と思ったかもしれない。もちろん僕も長生きをしてこの世の行く末を見てみたい、という思いはある。また快楽主義的というほどではないものの、好きなものを楽しみたいという欲求はそれなりにあるので、そのために節制をしている面もある。

からしたら風俗なり、酒や何かしらの料理がそんなに好きだったら、健康状態を良好に保つために努力をするべきだと思う。快楽を長く味わうにはその代償を払わなくてはならない。何事もタダで得られるものはない。それが哲学というか、僕の認識するところの単純な事実である。

しかし多分、西村賢太にはそんなことは出来なかった。そんなかったるいことをやるくらいならあっさり死んだ方がマシだったのだろう。そして彼は54才でぽっくり逝った。一日タバコ100本を40年!も続けていたというから、まぁ、このくらいが寿命だったのだろう。本人に心残りがあったのかどうはわからない。でも、これが彼が選んだ行き方だった。僕は彼と同じ轍は踏まないつもりである。

主婦パートの群れからはぐれた渡辺さんの話

昨日「おばさんたちも若い男が好きな件」を書いて思い出したこと。

僕は大学生の頃にダイレクトメールの発送のアルバイトをしていた。そこでは正社員の中高年の男女、パートの主婦、学生バイトの3つのタイプの人が働いていた。どこにでもあるような会社の誰でもできる簡単な仕事である。

主婦のパートの女性たちは大体が仲が良く、休み時間などは数人ずつが集まっておしゃべりをしていた。しかし、中にはそのいくつかの群れからはぐれるおばさんもいた。中にはそういう人もいる。

ある日、僕はいつもやっている仕事がなくなって、8畳間くらいの広さの会議室みたいなところで作業をやることになった。そこにもう一人パートのおばさんもいた。その人は例の群れには馴染めない孤独な女性だった。

二人で作業をやりながら僕たちは世間話をした。それでお互いのことを話しているうちに彼女が50才前後で独身だということがわかった。離婚したのではなく結婚をしたことがないと。

それで僕は「え、ホント? ホントに結婚してないの?」と大きな声を出して驚いてしまった。彼女は雰囲気はいかにも主婦っぽかったし、何よりも当時は40過ぎて独身の人はあまりいなかったと思う。

彼女の名前はすっかり忘れてしまったので、ここでは渡辺さんということにしよう。渡辺さんは姉と姉の娘(姪)と三人で住んでおり、姪がゴルフ会員権の販売(バブルを象徴する業種だ)の仲介か何かをやっていてけっこう儲かっているのだと言っていた。

話の端々から察するのに、現在そうであるように渡辺さんは若い頃から内気で人と接するのが苦手だった。また失礼ながら容姿的にはあまり恵まれた方ではなかったせいか、恋愛市場では人気がある方ではなく、お見合いにも抵抗があった。要するに結婚には積極的でなかったため、婚期を過ぎて50才前後の今に至るというところだったらしい。

同年代の同性たちとは馴染めない渡辺さんはだったが、親子ほど年が離れた異性の僕にはあっさりといろいろ話してくれた。

渡辺さんはよく「あの人たちは旦那がいるからいいじゃない」と何回もつぶやいた。彼女以外の主婦パートの人たちのことである。

「だったら渡辺さんだって結婚すればよかったじゃん」と僕が言うと、一瞬つまって「あたしはいいのよ。結婚はいいの」と少し語気を強めて言った。

「渡辺さん、若い頃に戻って何かやり直したいことはある?」と僕は訊いてみた。

恐らくは内気で何事にも消極的だったであろう渡辺さんに後悔があるのか訊いてみたかったのだ。あの時、もっと勇気を出してやってみれば良かったと思うようなことがあるのか気になった。

うーん・・・と少し緊張した面持ちしばらく考えたあと「特にない・・・かな」と渡辺さんは言った。

「若い頃に好きだった人はいなかったの?」と続けて僕は訊いた。

「そりゃね、そういう人もいたけどね。でも、そういうのはあたしうまくいかない方だからね・・」と少し笑って渡辺さんは言った。

渡辺さんにも大恋愛があったのかもしれないし、片思いで気持ちを告げることもなく終わったのかもしれない。それ以上は訊かなかったのでわからない。

当時、若い僕は人生経験が浅く、特に親子くらい離れた大人のことなどまったくわかっていなかったから、好奇心のままに質問をしてしまった。渡辺さんは僕のことをある意味でかわいがってくれて、ぶしつけな質問にも寛容に答えてくれた。

その後も、主婦パートの群れから離れた孤独な中年女性の渡辺さんのことは僕は好きで、ちょこちょこと話をした。今、健在ならば80才くらいだろうか。彼女は僕のことなど覚えていないと思うが、僕は渡辺さんを久しぶりに思い出して暖かい気持ちになっている。