雑文

思いついたことを

おばさんたちも若い男が好きな件

大学3年から4年くらいの頃、僕は昼間にダイレクトメールの発送をするアルバイトをやっていた。僕が通っていた学部は夜間だったので、必然的に働くのは昼間になった。場所は大学の近く。

主婦の40代以上くらいの女性たちが印刷物を封筒に入れ、それを僕たちアルバイトの学生が封入機に流し込んだ。もう細かなことはすっかり忘れてしまったが、仕事は単調だがちょっとしたコツが必要なものだった。

そこで働く人は主に3つに分類できた。一つは社員。二つ目はパートのおばさん。そして三つ目が僕たち学生バイト。当時はバブル景気のまっさかりの頃で、ダイレクトメールの発送というあまり給料が良さそうではない会社の社員でも家を買っていた。この百年くらい、基本的に土地や住宅の価格は上がり続けている。だから今、買わなかったら今後ぜったい買えなくなるから25年ローンを組んだ、家は千葉だから会社まで二時間半かかると40代の男性社員が語っていたのをよく覚えている。(言うまでもなくその後、バブルは崩壊して地価は下落した。)

パートのおばさんたち(主に40代)はDMの紙を封筒に入れながら、隣の人と世間話をしながら働いていた。聞くともなく聞いていると、内容はテレビの話とか家族のことなど他愛のないことである。

その中で一番よく覚えているのが、年末年始の休み明けに箱根駅伝で走っている男の子たちがいい、M大の子がカッコよかった、あたし若い子大好きーというキャッキャとした女性たちの話しぶりである。正直に言うと、当時20代前半だった僕たち学生はパートの女性たちを女性として、つまり性愛の対象とは考えていなかった。当然のことだった。それがおばさんたちは僕たちと同年代の大学生を見てカッコいいとはしゃいでいるのは衝撃的だった。

ある日、僕たち学生バイトがおばさんたちと笑いながら作業をしていると、ボス的な女性社員が「あの人たちは若い子ともうはしゃいじゃって、全然働いてないじゃない!」とかなり感情的に怒った。でも多少、大きな声だっただけでちゃんと手は動いていた。明らかに嫉妬だと僕は思った。

またある日、おばさんたちの会話を聞くともなく聞いていると、というかもしかしたら意図的に聞かせていたのかもしれないが、パートの二人のおばさんが一人の学生バイトのことが好きで「それじゃ、あんたたち二人であの子の取り合いだね(笑)」と冷やかされていた。

おじさんが若い女が大好きなのは知っていたが、中年女性も若い男のことがけっこう好きという現実を知ったのはこのアルバイトの時である。おばさんたちの会話を聞いて僕たちの中には露骨に嫌悪感を示す者もいた。「自分の息子みたいな年の男を恋愛対象にするのは気持ち悪い」と。僕も多少はそう感じた。でも、一方でそれが人間の性(さが)であるというのは二十歳くらいになればなんとなくわかる。
いくら同僚の中年女性たちが若い男が好きとはいえ、まさか「好きです、付き合ってください」と告白までしてくるわけでもあるまい。ただ、若い僕たちは彼女たちの感情をどう考えたらよいかわからず戸惑っていた。

おばさんたちの気持ちが本当の意味で理解できるようになるのは、僕が彼女たちの立場になった40才以降のことである。

大学学費値上げ反対闘争・ストライキの思い出(1990年代)

僕が大学4年と6年生のとき、僕が所属する大学で学費値上げ反対闘争があった。1990年代初頭のことである。世の中的にはそういう種類の学生運動は60年代70年代で終わっていて、80年代にはその反動で白けた雰囲気が漂っていたから、当時も「今時そういうことやる?」という感覚はかなりあった。

学費値上げというのは、確か「定額スライド制」と呼ばれるもので、入学年度が遅れるほど一年ごとに数万円ずつ学費が値上げされることになっていた。(随分後から知ったが、これは僕が通っていた大学だけではなく全国的な傾向だったらしい。)

なぜ学費値上げが学生の間で問題になったかというと、素朴に「それじゃ経済的に裕福な家庭の子しかこれないじゃないか!」という素朴な怒りだった。キャンパス内には大学当局を批判する立てカン(立て看板)が乱立し、教室に入ると机の上にはかならず学費値上げ反対のビラが置かれ、入り口では誰かがトラメガでアジ演説をやっていた。

そういう派手な活動をやっていたのは、実は一般学生ではなく大半は新左翼セクト支配下にある学部の自治会の人々だった。彼らは明らかに30を過ぎているようなベテランもかなりいた。彼らとしては、これをきっかけに無垢で何も知らない学生をリクルートし、大学との関係を優位なものにしようとする意図があったのだろうと思う。

実は僕もその反対闘争にちょっとだけ関わった。70年代みたいに内ゲバ殺人が起こるような激しいものは耐えられないが、昔の学生運動の雰囲気を少し味わってみたいという好奇心があったのだ。

僕が通っていた学部の同じクラスの奴にノンセクトの奴がいて、そいつに誘われて学習会みたいのに参加したり、ビラ配りをやってみたりした。そのノンセクトの連中の雰囲気はかなりゆるかった。この手の学内での運動の主役はセクト(時々殺人が起こる)の自治会で、ノンセクトはほんのおまけみたいな感じだったから、おちゃらけてやっていた。

キャンパス内でその他学部のノンセクトの一人が「全ての**大生の皆さん!」と呼びかけていて、夕方6時から喫茶店で集まりがあるから是非来てください、と言っていたので行ってみた。僕はてっきり歓迎されるのかと思いきや、ほとんど話しかけられることもなく、彼らは仲間内だけで通じるような隠語や人間関係で盛り上がっていた。

セクトは組織の拡大の機会と盛り上がり、ノンセクトは政治的なサークルとして大いに楽しんでいた。僕たち一般学生もそれなりに盛り上がっていたが、それはあくまでお祭り的なものだった。要するに学費が値上がりして困る若者のことを真剣に心配する者など誰もいなかった。

1回めの学費闘争のとき、結局、試験がなくなりレポートの提出になった。そしてクライマックスは総長断交だった。大きな会場に主にセクトの皆さん、そしてわずかな一般学生が集まり、壇上には総長と学生たちが大声でやりあった。そして2、3時間経って大学側が議論を打ち切って会場の裏から総長が逃げて用意してあった車に乗って帰った。

残された僕たちは、キャンパス内でデモをやった。なんで無人のキャンパスでこんなことをやっているのかわからなかったけれど、欲求不満のはけ口として必要だったのだろう。そして最後に「**総長の蛮行を許さないぞー!」とかなんとかシュプレヒコールを上げたんだと思う。

総長断交の翌日、僕の同じクラスの友人が総長から卒業論文の口頭試験みたいなのを受けた。そうしたら総長は何事もなかったように普通の感じで話してくれて、意外といいヤツだったと言っていて笑ってしまった。

2回めは1回めの2年後。2回めも基本的には同じだった。各学部で反対集会が開かれ、学内は反対運動一色になった。その中で一番よく覚えているのが他学部で行われた「バリ封」だった。「バリ封」はバリケード封鎖の略で、教室から長い机を持ってきて階段に固定したもの。人が一人しか通れない程度の幅だけ作っていて、どうやら70年代からの伝統芸らしかった。

そして2回めのときも総長断交が開催された。今回も適当なところで総長は議論を打ち切って裏口から逃げるだろうと僕は予想したので、その裏口で待っていた。そうしたら本当にその通りになって総長は車に乗ってさっさと帰ってしまった。でも誰も総長の逃走を止めなかった。

僕みたいな何も詳しいことを知らない学内政治に無知な学生でさえ、総長の行動を読めたのにセクトノンセクトが読めないはずがない。逃走は予定通りだった。だから、つまりは総長断交とは単なる儀式だったんだと僕は思った。

大学は今どき珍しく学生運動が起こる本学は元気があってよろしいと喜び、セクトは党勢拡大に利用でき、ノンセクトは青春の思い出を作ることができた。みんな楽しい時間を過ごしたと言えなくもない。

1990年代の初頭から30年後の2021年の今、学費は実に2倍になっている。給料水準は特に上がっているわけでもないのに、この値上がり幅には驚くばかりである。これは恐らく国からの補助金が減っていることが大きな要因なのだろう。当時、僕たちがどれだけ大騒ぎしたところでどうにも変えようの時代の流れだった。

そしてあれから30年近くが経った今、当時のことを振り返るといまだにモヤモヤしたものが心の中に残っている。当時も僕らにはどうしようもないことだし、大騒ぎしている連中もろくでもないやつばかりなのは分かっていた。だから僕も決して真剣というわけではなかった。でも、なんとなく素通りはできなかった。単なる好奇心だけでなく、大学や産官学の巨大な組織に何か一言物申したかった。だから僕は、少しだけ闘争に参加してみた。

すべては結果オーライ

先日、友人たちの新年会があった。そこには数年ぶりで会う友人知人がたくさん来ていた。その中に6年ぶりくらいで会うルミという女性とその娘さんがいた。父親のタクロウは単身赴任で北海道にいる。娘さんは中学3年生で6年前はかわいらしい小学3年生だった。皆、大きくなった子に驚いていろいろ声をかけていた。

 

思い返してみると、娘さんが生まれる前、父親となるタクロウはルミの妊娠を知ってパニックになっていた。悩みに悩んで「もう死にたい」と誰彼なく泣きついていた。

当時、ルミとタクロウの関係ははっきりとした恋愛関係というわけではなく、仲が良くて二人ともセックスが好きだから、ルミの家にタクロウが入り浸ってよく泊まり込んでいたらしい。避妊はしてない、というのは周りの友人たちも知っていて、「そのうちガキが出来て大変なことになるぞ」とタクロウはよく警告を受けていた。

でも若いということは避妊もしっかりできないということでもあり、1、2年するうちにルミは妊娠した。

独身でまだ若く定職に就いていなかったタクロウは子どもを望んでいなかったから、もしかしたら中絶をお願いしたのかもしれない。「死にたい」と言っていたくらいだから、もしもルミがそうしてくれたら胸をなでおろしたことだろう。でも、子どもが欲しいルミは迷うことなくあっさり子を産んだ。

タクロウは結婚はしなかったが、子は認知した。それから非正規であちこち働いて、何年かしてから正社員になり、タクロウとルミは正式に結婚をした。かわいい顔立ちのタクロウは女の子にモテたし、すごくルミに惚れていたというわけでもなかった。子どもが生まれなかったら、間違いなく二人は別れていたと思う。

そして今、二人は今も結婚生活を続け、妊娠を知ったときは苦悩して死にたいと叫んでいたタクロウは今、娘がかわいくてたまらない。娘の帰りが遅くなると心配してすぐにLINEを送ってうざがられている。

新年会でルミとタクロウの娘さんは知らないおじさんおばさんから声を掛けられてもニコニコして答えていた。この子は多分、どういう経緯で自分が生まれたのか詳しいことは知らないだろうな、と僕は思った。もちろん彼女は両親の過去の数々の男女関係も知らないだろう。その場にはかつてタクロウやルミとセックスをした人々もいたが、そんな話は絶対に言えない。(言えるわけがない。)

僕はルミが迷うことなく子どもを産んだと思っていたが、もしかしたら危うかったのかもしれない。何しろ、二人は若くて経済力はまったくなく結婚なんて考えられなかったのだ。

タクロウの自制心の無さで間違って生まれきた娘さんが、今ではかけがえないのない宝物になっている。娘がいない人生など考えられなくなっている。すべては結果オーライだ。皆が娘さんの成長を心から喜んだ一夜だった。

行きたいところが無いという話

僕は子どもの頃、旅番組を見るのが好きだった。「兼高かおる世界の旅」なんかを観ていた記憶がある。子どものころは、大人になったら世界中を旅するのだと決めていた。せっかく生まれてきたのに、外国を見て回ることなく死んでしまうなんて耐えられないと思っていた。

その後、大学3年生になったとき、僕はアルバイトをしてお金を貯めて初めて外国旅行に行った。いわゆるバックパッカーだ。行き先は主に東ヨーロッパ。当時は東欧革命が起きていたので、現地で何が起きているのか自分の目で見たかった。

その年の夏には韓国。翌年は中米のメキシコ、グアテマラエルサルバドル。その後はタイ、インド、イラン、トルコ、シリア、ヨルダンなど。

初めての外国旅行はものすごく刺激的だった。外国にいるというだけで興奮して、地上から15センチくらい浮いて歩いているような感覚だった。3回めくらいまでそんな感じだっただと思う。しかし4回めのイランからスペインまでの旅行になると、それまでの感激は薄れ、なんだか同じことの繰り返しのような感覚になってきた。特にラマダン中のイスラムの国で冬の寒い街を歩いていると、「これなら日本で寝っ転がってテレビでも観てた方がいいな」と思うこともしばしばあった。

中には10回も20回も外国旅行をしていても同じように楽しめるという人もいる。でも、僕はそういうタイプではなかった。世界中を旅したいと子どもの頃は強く思っていたが、ある程度外国に滞在してみると、どの国もそれほど違いはないことがわかり、あまり刺激的ではなくなった。何回も、何年も旅を続けることができるというのも一つの才能なのだ。幸か不幸か僕にはその才能はなかった。

そして30歳を過ぎた頃から、もう僕はどこにも旅に出たいとは思わなくなった。その後40代になってお金や時間ができたとき、再びまたリュックを背負って外国に行ってみようかと模索してみたことがある。英語のガイドブックを買い、インターネットで現地の情報を調べた。でも、自分が飛行機に乗ってそこまでいって何日か滞在することをイメージすると、どうしても「メンドクサイ」という感覚が浮かんできてしまう。どうやら僕は本格的に燃え尽きてしまったようだ。そして、そのことに強い痛みを感じないのだ。

そして50代になった今、多少は自由になるお金があり、頑張れば一週間くらい仕事を離れることもできる。でも、どこにも行きたいところがない。思いつかない。仕事で出張だったら喜んで行くと思う。しかし自分で行き先を選んでコースを決めるとなると、どうしても萎えてしまう。

井上陽水の歌に「人生が二度あれば」という曲がある。二度目の人生は失敗せずにうまくやれるのに、という曲だ。二度目の人生は成功するかもしれない。でも、確実に面白くないだろう。恋愛の情熱も、仕事の達成感も、旅の感激もすべてが8割減だ。そんなものに価値はない。

行きたいところがなくなってしまった僕は、必然的にどこにも行かない。でも、人生には他に情熱を注ぐべき事柄はたくさんあるのだ。それでいいのだ。

手紙の思い出

先日、郵便局にいったら窓口に寒中見舞いを出しませんか?という宣伝チラシがあった。年賀状とか暑中見舞いなら見聞きするけれど、寒中見舞いのハガキは出したことももらったこともない。まぁ、ネットの普及で年賀状が減っているので、郵便局としては理由はなんでもいいからハガキを出して欲しいということなのだろう。

ハガキといえば、僕はバックパッカー時代によく旅先から絵葉書を出した。今はインターネットの時代だから外国からも簡単に連絡ができるが、当時は郵便とバカ高い国際電話しか連絡手段がなかった。特に夜は宿でやることがあまりないし、なんとなく人恋しくなるので、日本にいる友だちに宛てて現状を報告するのが慰めになった。

数年前に実家に帰ったときに母がとっておいてくれた僕が出した絵葉書を見返してみた。メキシコや韓国、インド、シリア、アイルランドなどいろいろなところから出していた。ハガキを書いていた当時のことは全く思い出せないが、文面からなんとなく孤独感が漂っている気がした。ハガキの汚れ具合やエキゾチックな切手に押された消印がビンテージな味わいになっている。

また僕はかつてはよく文通をした。相手は海外に留学した友達や数回会っただけの人、または一度も会ったことのない人もいた。仕事から帰ってきてポストに文通相手から封筒が入っていると嬉しくてわくわくしながら開封した。

手紙の最大の良さは紙として残ることだろうと思う。そして筆跡やインク、経年劣化で古くなった味わい。もらった手紙は、読み返すことはほとんど無いが、どれもちゃんと保管している。

しかし、今はインターネットの普及によってSNSで瞬時にテキストや画像、動画、音声を送受信できる。わざわざ手間暇とお金をかけて手紙を送る理由がない。僕は数年前に友人に文通をやらないかと誘ってみたことがあるが、あっさりと断られた。今どき、わざわざ文通をするなんて余程の好事家だろうから、断られて当然である。

僕は年賀状が好きでないので(みんな「元気ですか?」みたいなことしか書かないから)、今では私的なハガキ・手紙を出すことはまったくなくなってしまった。一度、便利さを体験してしまうともう戻れないのは誰しも同じだ。

19世紀のフランス小説なんかを読んでいると、人々はせっせと一日に何通も手紙を書いて従者が届けていた。日本でも人々はしばらく会わない友人にはよくハガキを出していた。内容はなんでもない日常の出来事である。

21世紀の今、そういう伝統が途絶えてしまったことは寂しい気もする。僕が保管している茶色く変色したハガキや手紙も僕が死んだらおそらくみんな燃やされてしまうだろう。これも時代の流れと受け入れるしかないのだろう。残念ながら。

老成した少年

数年前にテレビを観ていた。それは貧困問題をテーマとしたもので、特に十代の少年少女が貧困家庭の中でどういう問題に直面しているかというものだった。両親が離婚してシングルマザーに育てられ、父親からは養育費がまともに支払われていなかったり、親の虐待に苦しんでいる子どもたちがたくさんいる、というような内容だったと思う。

その中で僕が今でもよく覚えているのが、「どうか親御さんには子どもたちに現実の苦しい想いを話さないで欲しい。親の生々しい苦悩を知らされると、子どもは生活苦を背負ってしまい、少年時代を少年少女として生きられてなくなってしまう」という識者の言葉である。

その時、僕が思い出したのが、僕が中学2年生のときに父が脳血管の病気で倒れて病院に入院したことだ。その7年くらい前に父は大きな脳血管の手術をして無事、回復していた。その後、不摂生がたたったのか、再び病状が悪化したらしかった。

当時、僕は野球部に入っておりレギュラーが取れるかもと期待が膨らみ、クラスでもうまくいっていて、毎日が楽しい日々だった。それがある日、突然、父の入院で断ち切られてしまった感じがした。舞台が暗転したような感覚だった。

それからは7年前と同じように母の姉が地方から出てきて一緒に住んで家業の牛乳配達を手伝ってくれた。僕は兄と二人で早朝に自転車で牛乳配達をした。学校に行く前に牛乳配達をすること自体は大したことではなかったが、それでも多少なりとも肉体的に疲労はするし、父が倒れてこの先が見通せなくなったことがショックだった。友達にはこのことは誰にも言えなかった。同情されるのが嫌だった。

それから数ヶ月して父は病院から退院し、徐々に元の生活に戻っていった。しかし、その後の生活も父の頭には爆弾があるようなもので、いつまた爆発するかもしれない、という事実は僕たち家族には重い現実だった。

それまで僕はクラスの中で軽口を叩く明るい性格だったのが、無口で物思いに沈むことが多くなった。先生からは急に性格が変わったので「どうかしたのか、何かあったのか」と何回も訊かれた。それから僕は現在に至るまでもずっと「物凄く落ち着いている」と友人たちから言われるようになった。そう言われても自分でもその理由がよくわからなかった。

しかし、貧困問題のテレビ番組で識者から「少年時代を少年少女として生きられてなくなってしまう」という言葉を聞いたとき、もしかしたら僕はあの中2のときから少年として生きられなくなったのではないかと思った。それはまさしく僕自身のことだったのではないか?と。

その後、僕は無事に高校、大学へと進学することができたし、父の病気で父を恨んだわけでもない。しかし、あのことをきっかけに僕が子どもながら生活の苦悩を背負ったのは間違いない。言うなれば僕は老成した少年だったのだろう。

もちろん、僕は子どもらしく生きた方が良かったのだろう。でも、それが人生において特に障害になったわけでもない。ただ、どうして僕はこれほど早い時期に落ち着いた人間になったのか理由がわかって、長年欠けていたパズルのピースが埋まったような気持ちである。

押入れの中のアルバム

今から3年くらい前のこと。母が認知症にかかっていることがわかった。その数ヶ月前からどこかおかしいと思うことが多くなり、兄が母を病院につれていった。そしてテストを受けて脳のMRIを撮って正式に認知症と診断された。

母はやたらとお金の心配をして財布を押入れに隠した。しかし、どこに隠したか忘れてしまい、「財布がない」と家族に訴えてあちこち探し回っていた。長いときは3時間くらいも押し入れを念入りに探していた。

「お母さんがボケた」ということで、都会に住む僕も数日、実家に帰り、何ができるというわけではないが、母といろいろ話をした。そんな中でまた母が財布がないと騒いだので、仕方なく僕は押入れの物をたくさん取り出して、母の代わりに財布を探した。

服やら布団やらをかき分けているうちに、いかにも古い表紙が布張りのアルバムを見つけた。どうしてアルバムが押入れの奥に仕舞われているのかと訝しく思いつつ、開いてみると母の若い頃の白黒の写真がたくさん貼られていた。中学や高校生の頃のものや就職してからの会社で撮ったもの、同僚と行った旅行先で撮ったものなどたくさんあった。どれも僕が生まれて初めて見る写真だった。

そういえば母が若い頃の写真は見たことがなかった。母は戦前の生まれだし、家が貧乏だったから写真を撮ることはなかったのだろうとなんとなく思っていたが、実はそんなことはなかったのだ。

僕は唖然としながら「どうしてこれまで写真を隠してたの?」と訊くと、「なんだか恥ずかしくてね」とちょっと照れた顔で母は答えた。

今は圧迫骨折で背中が曲がった老女だが、母にも若い頃はあったのだ。特に女子高生の頃は息子の僕が見てもわりとキレイ目な感じの少女だった。僕が知ってる母はいつも家事と仕事に追われてる忙しい大人だが、母にも将来を夢見る若い時代があったことになんだか感動した。

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左が母

母の実家は貧しい農家で一番上の兄は馬引きをやっていたという。当時は車が貴重品だったから馬で荷物を運んでいたのだ。幼い頃から農作業を手伝わされていた母は、結婚するなら百姓だけは嫌だと強く思っていたという。

9人兄弟で高校に行けたのは勉強ができた兄と末っ子の母だけだった。上の兄弟姉妹たちがお金を出して高校に行かせてくれた。同級生の大半は中卒で働いていたから、高校に行けたのが嬉しくて自慢で仕方なかったらしい。1950年代の日本はまだまだかなり貧しかったのだ。

母は24才くらいで同郷の父とお見合い結婚をした。角隠しをかぶった若々しい花嫁姿の母と紋付袴姿の父の写真が何枚もアルバムにあった。その後、母は田舎から父が住んでいた東京の板橋に引っ越した。本当に何もない田舎から大都会に引っ越して大変だったんじゃないかと僕が訊くと、風呂もない狭いアパートに二人で住んで、銭湯に通って楽しかったという。方言を丸出しでしゃべっていたら、同じアパートの人によく真似されたと笑った。その後、数年して両親は東京から現在も住む地方に移り住んだ。

 

それまで押入れの奥に隠されていたアルバムは、今は僕たちのアルバムと一緒に棚に並んで仕舞われている。お金が盗られてるのではないかと不安で財布を探してばかりいた母だが、今は認知症の薬がうまく効いたのか妄想もなく落ち着いている。

もしも、財布がないと騒ぐことがなかったら、母が死ぬまで僕はそのアルバムの存在を知ることはなかっただろう。結婚前の若い頃のことを聞く機会はなかったはずだ。当時、何を思って暮らしていたのか、母の口から直接聞けたことは僕にとっては小さくない出来事だった。だから母が認知症になったことは必ずしも悪いことばかりではなかったのだ。