雑文

思いついたことを

母親思いのヨシオさん

僕は40才くらいの頃、生活費に困っていたので障害者介助をやっていた。当時、二人の介助をやっていて、水、日曜日の泊まりがタケシ、日曜日の日中がヨシオさんだった。

ヨシオさんは当時、50代半ばだったと思う。生まれたときから脳性麻痺で、若い頃は歩くことも可能だったのが、加齢とともに車椅子で移動するようになった。僕が会った頃はトイレとかベッドなどへの移動以外はずっと車椅子を使っていたと思う。

日曜日の朝、10時に僕はヨシオさんの家を訪ねた。まずやることは前の晩にヘルパーさんが作りおきしておいてくれた朝食の介助。麻痺が強くてスプーンを自身で扱うのが難しかったのだ。それから部屋の掃除。昼からは都内の街に出掛けたり、近所を散歩したり、ときには小田原まで遠出したこともあった。

ヨシオさんは僕が加入していた障害者の家にヘルパーを派遣する事業所の利用者の中で高齢の方だった。ヘルパーは若い人が多かったので、話しにくい年配の人よりも若い障害者を希望する人が多かったように思う。僕の方は初めての人とあまり打ち解けることも笑顔を作ることもできず、あまり障害者に好かれる方ではなかった。その点、ヨシオさんは介助者に対して相性とか人間関係を求める人ではなく、やることをやってくれれば誰でもOKだったから僕としてはありがたかった。

ヨシオさんは80代後半のお母さんと二人で暮らしていた。生まれたときから一緒に暮らしている親子だから遠慮なく悪口を言い合う仲だった。でもヨシオさんには言語障害があってどうしても話すスピードはゆっくりで不明瞭だったから、口が達者なお母さんの方がいつも優勢でヨシオさんはよく「うるせー、クソババア黙れ!」と怒鳴っていた。

僕とヨシオさんは相性が良かった。それほど会話をしたわけではないが、無言でもお互い苦しくなかった。また言語障害がやや重めでお母さんが聞き取れないときも僕は割と簡単に聞き取ることができた。(言語障害を聞き取れるかどうかの相性はけっこうある。)またヨシオさんはパソコンを勉強中でわからないことが多かったので、僕が助けることができて喜んでもらえた。

ヨシオさんの介助を2年くらい続けていた頃だったろうか、高齢のヨシオさんのお母さんが具合が悪くなって入院した。具合が悪くなったといっても、もう90前後だったので全てが具合が悪くなっていたし、今後、良くなる見込みはなかった。

それまで僕とヨシオさんは街に買い物に出かけるようなことが多かったのが、お母さんが入院してからは毎週、病院にお見舞いにいった。一口に「お見舞いに行く」と言っても車椅子でバスに乗るのでけっこう大変だった。どうやって乗り合いバスに乗るかというと、バスが全体的に傾いて、スロープがスルーっと出てくる。車内に入ると、障害者の優先席を畳んで場所を空けてそこにロープで車椅子を固定する。

バスの運転手さんもめんどくさかったと思うが、バスは障害者にとって非常に重要な移動のための手段なのでそんなことを遠慮するわけにはいかない。

病院は老人専用の病院だった。病院といってもどこかを積極的に治療をするわけではなくヘルパーさんが下と栄養の世話をするだけの施設だったと思う。

エレベーターに乗って病室がある階に着いてドアが開く。日曜の昼の病室なのにフロア全体がシーンとしている。人工呼吸器か何かの機会の音だけが規則的に響いている。何歩か歩くとほのかに糞尿と消毒液の匂いがする。廊下と病室全体にその匂いが充満している。病室には高齢の女性ばかり30人くらいが寝ていて、誰も一言も発しないし、テレビや新聞を見るようなこともなかった。ものすごく異様な光景だった。

ヨシオさんはお母さんがいるベッドに寄り「母ちゃん、俺だよ、分かるか?」と言った。返事がないので何回か同じことを繰り返した。するとお母さんは「ヨシオか? お前のことがわからなくなったらお終いだよ」と小さな声で言った。ヨシオさんは嬉しそうに笑った。

僕とヨシオさんは毎週、日曜日にこの病院に行った。最初は少しは喋ったお母さんは次第に何も答えなくなった。

ある日、ヨシオさんは言語障害で苦労しながら言った。「この前、病院からそろそろ他の病院を見つけてくれないかって言われたんだよ。どうやら三ヶ月くらいはいいんだけど、それ以上、入院してると国からの収入がすごく減らされるらしいんだ。でも他の病院にあてなんてないし、どこか遠くに転院すると俺が病院に行けなくなるしな。」

そういう話は僕も聞いたことがあった。そのときすでにお母さんが入院して半年くらい経っていた。病院も障害者の息子さんと二人暮らしということで配慮をしてくれていたのだと思う。ヨシオさんには他に二人の兄弟がいたが、見舞いにくることはおろか日頃、連絡を取ることもなくなっていたので、お母さんの入院の問題は全部ヨシオさんが引き受けるしかなかった。

ある秋の日の日曜の夕方、病院から帰ってきてヨシオさんが言った。「母ちゃんがいなくなって一人暮らしになってさ、正直言うとこんなに寂しい思いをするなんて思ってもみなかったよ。」こんなに思いつめたような顔をしたヨシオさんを見るのは初めてだった。

「生まれたときからずっと一緒に暮らしてたんですもんね。そりゃそうですよ」僕は言った。

「こんなにつらい想いをするなら一緒に住まなきゃよかった。俺さ、今すごく、すごく・・・つらいよ、寂しいよ」と泣きながらヨシオさんは叫んだ。

50代のおじさんが母親がいなくなってこれほど感情を爆発させることに僕は戸惑って何も答えることができなかった。介助者としては、ただ気持ちを聞くだけで精一杯だった。多分、それで良かったのだろう。

それからしばらくして、僕はヨシオさんの介助を辞めた。その何ヶ月か前から体がきつくなってきていたのが理由だった。ヨシオさんは僕が辞めるのを残念がってくれた。

数年後に介助者仲間の知人に聞いたのだが、僕がヨシオさんの介助を辞めてしばらくしてお母さんが亡くなった。それからヨシオさんは気難しい人になった。ささいなことで介助者をキツく叱り、話しかけづらい人になったという。きっとお母さんがいなくなったのが寂しくてたまらないのだ。

ヨシオさんがそんなに怒りっぽくなっている姿を僕には想像できない。僕にとってヨシオさんは今でも優しい、よく笑う母親思いの優しいおじさんである。