雑文

思いついたことを

障害者Aさんの話

僕は大学4年生の頃から5年くらい一人の障害者の風呂介助をしていた。その障害者のAさんは筋ジストロフィー症に似た症状で、全身の筋肉が徐々に減っていく病気だが、心臓は無事でこの病気が原因で死ぬことはないらしかった。

日頃、Aさんは車椅子に乗って障害者団体の仕事をしていた。食事をするにはスプーンを右手で持ち、その右手を左手で支えることでなんとかしていた。トイレはその都度、誰かに支えてもらって用を足していた。でも風呂に入るにはしっかりと誰かの介助が必要ということで障害者団体から僕が派遣されていたわけだ。時間にすると1時間半くらいである。

なんで僕がそんな障害者介助をやったかというと、大学の同じクラスに障害者団体で働いている人がいて、その人から誘われたのだ。当時、僕は真面目で、好奇心旺盛で社会派を気取っていたので、渡りに船の話だった。

確か月曜日の夜7時半に僕は毎週、Aさんの家を訪れた。まず服を脱がせて頭からシャワーをかけてシャンプーをする。それからたっぷり石鹸をつけて全身を洗う。ホイストという一種のクレーンみたいなもので脇と膝裏にロープみたいなのをかけて持ち上げ、リモコンで風呂桶まで体を運ぶのである。

風呂に入っている時間は何もすることはないから、僕はAさんといろいろな話をした。僕は自分の学校の話やバイトの話など若者らしい出来事を話したと思う。Aさんは彼が若い頃の話をポツポツと話してくれた。足が悪かったもののなんとか自力で歩けたので学生運動に参加したとか、若い頃の日記を保存してあるが読むのがつらいのでノートをテープでぐるぐる巻きにしてあるとか、糖尿病の友人が病状が悪化して全身に痒みが出たのをダニのせいかと思って放置していたのが元で死んでしまった、病院にお見舞いにいったらその友人が「俺はこれで死ぬんじゃないかと思う、すごく恐い」と言っていたのが今でも忘れられないとか。

Aさんには子どもが二人いた。当時、上の男の子は中学生で下の女の子は小学生だった。お子さんが高校受験をするときは「自分が受験する方がずっと楽ですよ」と笑って言っていた。

中には「どうして家族がお風呂に入れないんだ」という意見の人もいた。本当はAさんもその方が楽だったかもしれない。でも、障害者の介助の体験をいろんな人に積ませるのもAさんの役割だった。

最後の方は僕が本格的に仕事が忙しくなってしまったので、申し訳ないことにちゃんと挨拶をしないままAさん介助を辞めてしまった。

あれから20年以上の月日がたった。Aさんはご存命なら80才近いことになる。僕には詳しく話してくれたわけではないが、鬱病の奥さんのこと、自分の障害と加齢のこと、子どもたちの将来、障害者団体の運営の問題などなど、悩みごとはたくさんあったはずである。

今でも時々、ふとした折にAさんのことを思い出す。風呂に浸かって世間話をしながらこぼした、青春の日々の様々な苦悩、子どもへ愛情、障害を持つことの苦しみ。そういう話がその後の僕の人生の糧になったのだと思う。今ではAさんに感謝の気持ちでいっぱいである。