雑文

思いついたことを

同級生Y子の話

最近、幼稚園から中学校まで同級生だった地元の友人とLINEでつながった。彼は僕が唯一、連絡をとっている地元の友人である。名前をヒロシとする。

それまでは年に1、2回程度、メールで近況を報告しあっていたが、LINEになるとチャット方式なので連絡する頻度がかなり頻繁になった。

ヒロシは地元のスーパーに勤めている。労働時間が長いのとなかなか休みが取れないのが悩みである。勤め先の店舗は数年に一度変わるのだが、一時期、僕たちの地元の店舗にいた。それで同級生がときどき来店して話をしたことがあるらしい。

それによると同級生と分かって話をした相手が5、6人いた。しかし、もう卒業してかなり経っているので会っても誰だかわからないまますれ違っている可能性もかなりあるので、実際はもっとたくさんの同級生と会っているだろう。

ヒロシが聞いた話では、同級生の多くは結婚していて、子どもがいたりいなかったり。40代で孫が生まれた者もいる。また独身者もそこそこいるようだ。

僕もたまにお盆や年末に帰省したときにスーパーにいって4人くらい同級生を見かけた。気後れして話しかけることはできなかったが、中には中学生の頃に僕が大好きだった女子もいた。顔に大きなシミができていて小学生くらいの子どもを連れていた。30年ぶりくらいに見かけたわけだけど、不思議に感慨はなかった。

ヒロシから聞いた同級生たちの近況の中で一番気になったのがY子のことだった。Y子は中学のときに2回くらい同じクラスになって、そこそこ仲が良かった。
Y子は僕たちが小学校4年生くらいの頃に兄を亡くした。Y子の兄は通学中のある日、不幸な事故で亡くなった。自動車事故ではなく、自身の不注意による信じられないようなあっけない死に方だった。

僕たちはみんなそのことを知っていたから、同じクラスになってからも、なんとなくY子がそのことでまだ落ち込んでいるのではないかと思って心配していた。
Y子は僕がムキになって怒っていると、よくおかしそうにクスクス笑っていた。昼休みに弁当を班ごとに机を向き合わせて食べていたのだが、ある日、僕は一人の班員に怒っていたので、一人だけ窓に机を向けて食べていた。そのときもY子はおかしそうに、いや今思えば幼児を見る母親のような笑顔で僕をニコニコして見ていた。
大人になった今から考えてみると、家族が亡くなって数年で立ち直れるわけはない。Y子は周囲から同情されるのが嫌で明るく振る舞っていたのかもしれない。そういう面もあったのだろう。

スーパーでヒロシが聞いた話によると、Y子は20代で結婚して今は隣町で暮らしており、子どもは今では20代後半くらいになっているらしい。それを聞いて僕はうれしかった。Y子は家族を築いて幸せに暮らしているようだ。

実は僕はY子のことがずっと気にかかっていた。正直いえば、けっこう心配していた。僕が40才過ぎくらいまで実家の母は牛乳配達をしていたので、帰省するたびに僕は配達を手伝っていた。その配達コースの途中でY子の実家の近くを通る。そのたびに僕はY子の家の前まで行き、どうなっているか確認した。僕たちが20代の頃、Y子の家の前には軽自動車が停まっており、中には男性歌手のカセットテープがあった。これはY子の車に違いない。30代中盤になるとY子の実家の玄関に手すりが設置された。これは母親のためのものだろう。もちろん、これだけで全体のことがわかるわけではないが、ちゃんと生活が続いていることはわかった。それだけでちょっと安心した。

ヒロシからY子のことを伝え聞いてから一年くらい経った頃、帰省した折に母と話をしていた。年老いた母との会話の内容はどうしても、昔話や共通の知人の話になる。僕の実家の近くに兄の同級生の家があり、その人が最近、帰省してお墓参りをしていったという。その墓地は僕の父も眠るすぐ近所の寺である。でも兄の同級生の家の墓はそこにはない。よくよく聞くと、兄の同級生は小学6年のときに亡くなったクラスメートの墓に今でも毎年、お参りにしているという。その「クラスメート」とはY子の兄のことである。

更に母から話を聞くと、Y子の兄が不幸な事故であっけなく亡くなった後、お父さんは落ち込んで鬱病になった。それで結局、事故から10年くらい経った頃に電車に飛び込んで自殺をしたという。事故から10年ということは僕たちが二十歳くらいの頃だ。

Y子の不幸は兄が事故で亡くなっただけでは終わらなかったのだ。僕は知らなかっただけで、その後も大変なことが続いたのだ。そのことに僕はかなりショックを受けた。実家の前の車に歌謡曲のテープがあるだけで元気にやっていると思い込んだ自分を呆れた気持ちで思い出した。

人の命はほんのささいなことで失われ、更にその悲劇が連鎖することもある、というのは僕も知っている。でも、優しいY子にこんな不幸が続いていいはずはない、あまりに不条理だろうと僕は思った。今からでもどうにかしてY子と連絡をとってお悔やみの言葉を送ろうかとも僕は思った。でも、お父さんが亡くなってからすでに四半世紀以上経っているので、さすがにやめておいた。

Y子はそれから結婚をして子どもを大学に通わせた。不幸は続いたが、そのことに負けずに幸せな家庭を築いたのだろう。いつか、死ぬ前にY子に会っていろいろ話をしてみたい。