雑文

思いついたことを

老親を施設に送る罪悪感

この間、近所の80代のおばあさんが引っ越しをした。彼女は一戸建ての住宅に50年くらい住んでいた。それがこの度、介護施設に入居が決まったのだ。

業者は2人。トラックは夕方の4時に来て、5時前には施設に向かっていた。介護施設にはベッドなどは揃っているから、衣装ケースや衣類くらいしか運ぶものはないからあっという間に終わってしまったのだ。

この3年くらい前からおばあさんは道路から自宅に上がる階段を登るのに苦労していた。10段上がるのに5分以上かかっていた。息子さんなど家族が後ろから支えたりしてなんとか暮らしていたが、もう回復の見込みはなく、いずれ完全に歩けなくなるのも時間の問題だと判断されたのだろう。

道路から自宅玄関まで段差が大きいから車椅子は使えない。50年前、その家に住み始めた日からいずれこういう日が来るのはわかっていた。いよいよその日が来たということだ。


僕はその引越の光景を見て、自分の母親が認知症になってグループホームに引っ越したことを思い出した。認知症が発覚してから2年半くらい経ったころだろうか。いよいよ同居している家族の負担が大きくなった頃に母は自宅を去った。

介護に疲れた妹が母に「グループホームに行ってもらうから」と通告した。「いいよね?」などと同意を求めることはなく、一方的な通告である。それに対して同居して面倒をみているわけではない僕は何も言えない。

母がグループホームに引っ越す前日、僕は実家に行っていろいろ母と話をした。そんなところに行きたくない、妹は本当にそんなところに追い出すようなことをするのだろうか? などといろいろ不安な胸の打ちを語っていた。また一方、「もうお母さんの面倒を見きれなくなったんだね? これが一番いいんだね?」とも言っていた。

あれから4年くらい経った今でも、そのときのことを思い出すとなんとも気が重くなる。老いて衰え自分の面倒をみれなくなるのは誰のせいでもない。一緒に暮らせないと判断して介護を他人に任せるのも悪いことではない。介護を続けていると時に殺人事件が起きてしまうほど過酷だ。綺麗事では済まないのだ。


母が老人施設に入居してから、よく僕は電話をした。そのたびに母は「寂しい」「いつ家に戻れるの?」「いつ孫たちは遊びに来てくれる?」と僕にこぼしていた。

認知症で自分がどこにいるのかもよくわからなくなった母はいつか自宅に戻れると思っていた。グループホームに引っ越すときも「家から近いからいつでも戻れる」と僕らは言った。

でも母は結局、あれから自宅に一度も戻ることはなく、孫たちが母を見舞うことはほとんどなかった。母と同居していた妹夫婦は母のことを嫌い、その子どもたちもばあちゃんのことを好きではなかった。

母はごく普通の特に何の特徴もない人で、誰かにいじわるをする性格の悪い人ではなかったのだが、ボケる前に10日くらい母は家で誰とも口をきかないことがあったくらいにハブにされていた。理由はよくわからない。

最晩年になって、母にこのような寂しい思いをさせてしまったことに僕はなんとも言えず申し訳なさを感じていたが、どうしようもなかった。

老人施設に入っている高齢者のほとんども母と同じような境遇でやはり同じように寂しさを抱えているはずだ、そういうもんなんだからと自分を慰めるしかなかった。

母が亡くなって一年経った。老いることや死ぬことは諦めるしかない。生きるとはそういうことだ。ただ「寂しい」という母の気持ちを埋められなかった罪悪感は僕の残りの人生で消えることはないと思う。

終活としての故郷訪問

ゴールデンウィーク中におよそ一年ぶりに故郷の町を訪れた。母が亡くなっておよそ一年。それまでは実家や老人施設にいる母に会いに行っていたが、亡くなってからは現実的な用事で故郷に帰る理由がなくなった。しかし、19才で大学入学のために上京するまで住んでいた故郷が・・・なんというか、わかりやすく言うと恋しくなったのだろう。

僕は実家に帰省するたびに家の近くの路地や神社、川沿いの遊歩道などを必ず歩くようにしていた。そうすると十代の頃にもどったような、ふわふわと常にどこかを漂っているような気持ちが落ち着くような気がするのだ。

今回、早朝に起きて昼近くに故郷の駅に着いて、レンタルサイクルを借りた。車やバイクは移動時間が少なくて良いが、スピードが速すぎるし、歩きだと時間がかかり過ぎる。自転車がちょうどいい。

始めは卒業した高校。駅から母校までの道のりはかろうじて覚えていた。街並みは40年くらい前とあまり変わっていない。もちろん家々は新しくなっているし、お店もすっかり様変わりしているが、町の構造や雰囲気のようなものはほとんど変わっていない気がした。

母校の校舎は建て替えられていた。見慣れない校舎を見ても特に感慨はない。門扉や植木には見覚えがあった。僕は部活で学校の外をよく走っていた。決まったコースの川沿いの道は全く変わっていなかった。あれから40年である。青春まっさかりの頃、50代の初老になった姿を想像できるわけもなく、途方もない時間がたったことに愕然とするというか、物悲しさを感じる。考えてみたら、同級生たちの中で今も連絡をとっている奴はひとりもいない。SNSで一人だけ同じクラスだった奴を見つけたが、そいつの投稿を見るとひたすらガンプラを挙げてるばかりで、あまりに趣味が合わないと思って、メッセージを送るのはやめておいた。

それから電動自転車を漕いで、かつて母と一緒に牛乳配達をしていたコースに向かう。ここは実家とは離れているが、子どものころから母が配達を引退する十数年前まで母について配達を手伝っていた場所だ。

配達のコースはよく覚えているし、町並みはまったく変わってなかったので、丁寧に路地の一本一本を舐めるように走った。なんでここまで丹念にコースをなぞる必要があるのか、自分でもよくわらなかったが、要するに感傷だろう。過ぎ去った過去を懐かしみ、亡くなった母を偲ぶ儀式のようなものだろうか。

田園地帯を過ぎると山岳地帯に行く。途中、折り返しのポイントに巨大な岩が幾つかあり、祠がある。周囲は竹林である。夏場はよくここで車を止めて母と一緒にしばらく涼んでいた。今回はここで腹具合が悪くなって岩陰で野糞をした。何年ぶりかわからないが、かなり久しぶりの開放感ある排泄だった。

駅やスーパーから遠い地域ではあるが、平地の住宅街では新しい家も多い。一方、山岳地方になると廃屋がチラホラ見える。かつてうちから牛乳をとってくれていた農家もその一つで、そこでは80近い老夫婦と軽めの知的障害があるらしい娘の3人が住んでいた。恐らく両親が亡くなり、娘一人では暮らしていけなくなったのだろう。また多分、戦前からあるような古い農家は誰も住まなくなってから20年近くなっていて、すでに家が半分くらい崩壊していた。ここの家はかつて両親と30代くらいの息子の3人暮らしだった。ある日、その息子が放火魔であることは発覚して、両親もそこには住めなくなって他所の土地に越していったのだった。息子は村の消防団の一員だった。火事が出て消防団として出動して消火活動するのが快感だったらしい。不審火が続くということで父親が見回りをやっていたのだが、息子は父親が帰宅してから放火活動にせっせと勤しんでいたのだ。その放火地点を母に聞いていたのだが、最後の方は火の気があるようなところでは全くない、放火以外では考えにくいところだった。もう完全に頭がおかしくなっていたのだろう。

もう一つ気づいたのが2,3あった工場(こうば)が無くなっていたこと。10-15年くらい前までは田舎の田んぼの脇にあるような、部品を作る小さな町工場がぽつりぽつりとあったものだ。しかし、日本の工業力が衰えと軌を一にしてそれらの工場も吹き飛ばされてしまった。もっと言えば僕が子どもだった70年代には小さな町工場はいろんなところにけっこうあった。当然、それらももう跡形もない。

最後に実家の近くにある同級生の家々を周ってみた。2軒が新しい家に建て替えら得ていたが、名前が全く別人のものだった。多分、両親が亡くなるか施設に入って住む人がいなくなり、売りに出されたのだろう。また2軒ほど、建物は変わっていないが人が住んでいる気配がない家があった。こちらも同じく親が亡くなったのだろう。僕らは50代ということは、親は80代が多い。そのくらいの年齢になれば、大半が亡くなるか、自力だけで生活するのは難しくなる。子どもも一緒に住めるわけではないので、残された家は処分せざるを得ない。


考えてみたらこれは全国で起きていることであり、小さからぬ社会問題になっているはずだ。実家の近所の僕の親世代くらいの高齢者は全員亡くなったか施設に入っている。

人は必ず老いるし、最後は死ぬ。そんな子どもでも知っている当然の自然の摂理を、事実として突きつけられているような気がした。若い頃の加齢は成長だが、50代ともなると老いになる。親は逝き、同年代の仲間も少しずつ大きな病気で亡くなっている。なかなか直視するのはつらい現実である。思えば、今回の故郷の訪問は残された人生をどう生きるか整理するための終活だったのかもしれない。

おしえてあげたい

「ち。」という漫画がある。その漫画は今、アニメ化されており、毎週、吾輩はNetflixでとても楽しく視聴している。

物語中、人々は天動説の矛盾の気づき、地動説に辿り着こうとしている。
しかしパラダイムシフトの転換を恐れる社会はそれを許そうとしない。ある者は拷問によって研究を悔い改め、ある者は火あぶりにあう。

それでも研究者たちは命をかけて真理を探求することをやめない。

21世紀に物語を見ている僕は彼らに地動説どころかビッグバンから多元宇宙論まで、今の知識を全ておしえてあげたい。ほら、本当の宇宙はこんな風になっているんだよ、数千億の銀河の中に数千億個の星がそれぞれこの宇宙にはあって、更に宇宙は一つじゃなくて何十兆個もあるいはもっと無数にあるみたいなんだよと優しく伝えてあげたい。

中世の人々はまるで地を這うアリのようではないか。

でも・・・とも思う。

数千億年後の宇宙はどうなっているか?

すべての星や物質は粉々に砕け散り、光すらない暗黒の空間が永遠に広がり続ける虚無の世界になる。地獄の方がマシな完全な虚無の世界になることを科学の力によって我々は知ってしまった。

そんな未来はつらすぎる。たとえそれが永遠のような先の未来のことだとしても、一片の救いもない虚無の未来なんて耐えられない。
人々が迫害に耐え、命をかけて何千年もかけてたどり着いた発見がこれだったのか。
真理はただそこにあり、人間を喜ばせるために宇宙の法則があるわけじゃない。

ただただ、人間は絶望するばかりである。

あの子に会いたい

あの子に会いたい、もう一度会いたい。

もう一度会って、あの愛くるしい笑顔を見たい。何時間も電話で話し込みたい。二人でどっかに出かけて、アパートにしけこんで布団に潜り込んであんなことこんなことを午前2時までやりたい。

でも、でも、でも、それはもうはるか昔の出来事。

そう、そう、そう、僕は若かったあの頃の思い出をスルメをしゃぶるように、延々と反芻している。

交差点で信号待ちをしながら、トイレの便座に座りながら、自転車を漕ぎながら。

まさか、まさか、まさか、僕が若くてツヤツヤしてた頃の甘い思い出に浸っているなんて。

こんなはずじゃなかった。でもね、無意識だからね、フラッシュバックだからね、これはやめられないんだよ。

もう僕はいい歳を中年のおじさんだから、そりゃ無駄な思い出もたっぷりあるんだけどね、あの日々は真冬に暖炉に薪をくべるみたいにこころを暖めてくれるんだよ。

実は、苦い記憶が削除され巧妙に編集されてることにも薄々気づいてるんだけどね。

でも、そんなことは大したことじゃない。

大事なのは、あの頃はこころが震えっぱなしだったってこと。

それ、それ、それ、大事なのはそれ。

命が燃える瞬間があったってこと。そういうこと!

死の破壊力はハンパない

この間、30年くらいのあつきあいのある友人Qに久しぶりに会った。1年ぶりくらいなんだけど、そのときは共通の友人Zの葬式のときだった。それで今回、軽く世間話をしていときにZの話になって「俺たちの友人知人で亡くなった人は30-40人くらいになるよ」と彼は言っていた。かつて我々は同じ飲み屋に通っていたので、共通の知人が多いのだ。

平均寿命が80代になったというのが信じられないほど、僕の友人知人たちは40,50代でたくさん亡くなっている。この8年くらいでは10人くらい? ガンが一番多くて、自殺や火事、コロナでも亡くなっている。

去年、ガンで亡くなったZはその3年前にガンと診断された。手術を受けなければ半年で死ぬと複数の病院から宣告されたが、当該以外の周りの臓器までもごっそり切除されてしまうのと体調は悪くないというのと、何よりも恐ろしいということで手術を受けなかった。周囲は皆、手術を強く勧めたが本人はがんとして拒否し続けた。

しかしZは意外にもその後、元気になり一時はかなり体調が良くなった。ガンと診断されてから一年経ってもピンピンしてるので僕などはそもそもガンというのは誤診だったのだと思った。それからZは旅行に行ったり、飲み屋に通ったり、バンド活動をしたり、精力的に活動を続けた。しかし、次第に物が食べられなくなり、体力が続かなくなってきた。亡くなる2週間前までステージで歌を唄っていたが、最後は寝ている時間が長くなり、寝ている間に亡くなった。

僕とZは必ずしも仲が良かったというわけではないのだが、30年以上のつきあいがあった。いわば青春を一緒に過ごした仲間だった。彼が亡くなった後の数ヶ月は心にぽっかり穴が空いたようだった。

Qも僕もZを亡くした喪失感をまだ抱えている。Z以外の亡くなった友人たちのこともはっきり覚えているし、もうこの世にいないという事実があまり現実のものに感じられない。一体、彼らはどこに行ってしまったのだろうと。

同年代の人たちが続けて亡くなると、次は自分の番かもしれないと誰しも思うようで、中にはどうやって葬式をやってもらうか真剣に考えて家族に伝えている奴もいる。

人は(あらゆる生物は)死んだらどうなるのだろう。魂は残るのだろうか。それとも電気がパチっと消えたように全てが雲散霧消するのだろうか。仮に霊的な物がこの世に残るしても、それでは数十億年後に地球が太陽に飲み込まれてなくなってしまった後、その霊的なものはどうなるのだろう? 更にその数百億年後にあらゆる星が消えてしまう自体になった後はどうなるのだろう? もしかしてこの宇宙が消滅してしまうとしたら? そして、そもそもなんで生命は生まれたのだろう? 

いつもは死のことは恐ろしくて正視できないのだが、よく知っている奴が亡くなった後はどうしてもいろいろなことを考えてしまう。彼らがいなくなったのだから、いずれ自分もこの世を去るのは当然だろうと思える。

しかし、信仰心やスピリチュアルな考えのない僕には死後のことはまったくわからない。

現在、僕は50代。余命はあとせいぜい30年くらいだろう。僕は日頃、健康の良いとされる食べ物を積極的に食べ、運動もしてなるべく元気でいたいと思っている。多少の努力をしているのだから、多少は長生きできるのではないかと期待している。そして僕はこれまで病気らしい病気をしたことがない。

しかし、いくら健康志向でいても遺伝的に一定の年齢になったら病気になるようになっていたら、どうしようもないだろう。我々できるのはせいぜい、数年の先延ばしができる程度だろう。

友人たちの死の衝撃を受けて、生きていることのありがたみをこれまで以上に感じるようになった。朝、起きて陽の光を浴び、ご飯が食べられること、それが一日一日と続くことを噛みしめるようになった。

また、これまでちょっとしたことで苛つくことが多かったのが、「近いうちに死ぬかもしれないのに、こんなつまらないことで怒ってる場合か?」と自問するようになった。

死んだら霊界はあるのかもしれないが、少なくともそれまでのようにこの世にはいられない。そう思うと身がひきしまらざるを得ない。死の破壊力はハンパないのだ。

老人施設に入居中の母を訪問

去年の夏から母はグループホームに入居している。認知症になっていることがわかってから4年くらいだろうか。徐々に母の病気は悪化していって、ついには同居している妹の手に負えなくなってきたので、グループホームに入ってもらうことになった。

「もうお母さんの面倒を見れなくなったんだね? 施設に入るのが一番いいんだね」と母に言われたが、僕には返す言葉がなかった。本当だったら自宅にいて孫の顔が見られる生活を送って欲しい。しかし実家を離れた僕が母の世話をできるわけではないので、この件については妹の判断を尊重するしかなかった。

これまで母の面会には4回くらい行っただろうか。今年の3月まではグループホーム側も家族の訪問には消極的で面会といっても建物の玄関で15分くらいという制限があった。それが今年の3月に政府の判断でコロナ対策が大幅に緩和されたため、最近は母の部屋にまで入れるようになった。

現在の母は今が何年何月何日なのかわからない。自分がどこにいるのかもわからない。しかし感情面はしっかりしていて誰がどうしたとかいう世間話やあのときは大変だったという思い出話はできる。

前回の訪問時、女性職員3人(60代くらい)の横を通ったときに母が「いつもお母さんが世話になっている人たちだよ」と言うので、「お世話になります。(母は)わがままなこと言いませんか?」と訊くと、「まぁ、みんなわがままだから(笑)」と答え、母も一緒に笑っていた。

今回も近くのコンビニで買ったシュークリームを土産に母の部屋に90分くらい滞在した。毎週、電話をして様子を伺っているので今更特に話すことはないのだが、母としてはリアルに子どもの顔を見れるのは何よりも嬉しいことのようだ。

「お母さんはいつまでここにいるのかねぇ」と今回も母は言った。もう死ぬまでここから出られない、少なくとももう自宅には戻れないとはとても言えなかった。

グループホームの見舞いには僕しか行かない。妹も孫たちも一度も行っていない。会っても話すことがないそうだ。介護でつらい思いをした妹は母の写真すら見たがらない。孫たちはばあちゃんに関心がない。

正直なところ、特に孫たちに苛つくことはある。こいつら白状な奴らだなと。しかし面会を強要することもできない。

「元気? 体の調子はどう?」と僕が質問すると「元気だよー。ただ生きてるだけだよ。もういつ死んでもいいよ」といつもと同じように母は答える。母は寂しくて家族にかまって欲しいのだ。

息子として僕もそういう言葉を聞くのはつらいが、僕も50代になり多数の友人知人を亡くしてきたので、そういう寂しさは人生ではある程度は避けられないものと思う。認知症になるまでは健康に暮らし、70歳過ぎまで自営業をやってこれた母は幸運な人生だったと思う。晩年は家族との関係がうまくいかず、寂しい思いをさせてしまったが、それもやむを得ないのかもしれない。

「次はいつ来る?」と帰り際に母は僕に聞いた。「来月にまた来るよ」と答えると彼女は嬉しそうに笑った。12月といっても母にはわからないが、来月という言葉は理解できるのだ。

帰省できなくなった話

先日、郵便局にゆうパックを出しにいった。そこの窓口で職員の人から梅干しのサンプルをいただいた。どうやら最近は郵便局でもいろいろな食物を販売しているらしい。

そういえば僕はこの何年も梅干しを食べていないのを思い出した。甘いものが多いスーパーの梅干しは食べれたものではないので、僕にとって梅干しとは帰省した折に母親が分けてくれるなのだが、ここしばらくは母親が漬けていないのだ。

そういえば毎年、正月に帰省した折にもらっていた餅もここ数年食べていない。母親が認知症になってもう作れなくなってしまった。

母が認知症とわかって3年弱。数ヶ月前から母はグループホームに入っている。当初は実家を出て施設に入れてしまうことに罪悪感を感じていた。しかし、ときおり電話で話す感じでは職員の人が母に気をつかって声を掛けてくれているようで、おもったよりも母の声はいつも明るい。それほど居心地は悪いようではなく、むしろ同居していた弟と会話がほぼなかったことを考えると、グループホームにいる今の方が会話が多いと思う。

今後、母は施設から出ることはなく、このまま施設で亡くなることになるだろう。そうすると、都会に住んでいる僕はもう「帰省」をすることができない。母が実家から施設にいくとき、数キロ離れた家に住む兄が「もうこの家にくることないかもしれない」と言ったのだが、それは僕も同じだった。

僕が19才まで住んでいた実家は今も存在する。(建て直しはした。)でも、そこに迎えてくれる母がいなければ僕は帰省することはできない。実家に住む妹家族と特に折り合いが悪いというわけでないものの特に歓迎はされないであろうから、そこはもう僕が帰るところではない気がする。

母は認知症ながら世間話は特に問題なくできるので、僕は施設に会いにいくだろう。しかし、それもあと何年かのことである。母が亡くなれば、僕は田舎に帰る理由がほとんど無くなる。帰省するたびに家の近所の道を散歩するのが大好きだった僕はどうするのだろう。自分でもわからない。

母が元気なうちから、こういう日が来るのはわかっていた。すべてのことには終わりがあるのだ。

いずれ僕も死ぬことになる。ここ何年か同年代の友人知人が続けて亡くなっているので、そのことを考えざるをえない。そのとき子どもがいない僕の持ち物は大半がゴミになる。僕が長年保存している日記や写真は残念ながら残された人々には意味を持たない。よほどの有名人でもなければ誰だっておなじことだ。

でも、それでいい。僕が生きている間だけ、僕にとって意味のあるものが存在してくれたらそれで問題はない。それでいいのだ!