雑文

思いついたことを

父の病気

僕が小学一年生の頃の話。

ある日、父が布団に寝て何かうわ言のようなことを言っている。父が僕たち兄弟三人を枕元に呼んで「もうダメだ。俺はもうダメだから、お前ら元気にやれよ。お母さんを守ってやっていけよ」などと半ば意識朦朧とした状態でつぶやいている。

母は「お父さん、そんなこと言わないで。お願いだからそんなこと言わないで」とボロボロ大粒の涙を流して号泣している。そんな時間が1時間くらい続いた。父の具合はよくわからなかったが、母の激しい泣き方を見て異常な事態になっていることを幼いながらに僕は理解した。

それから父の兄弟姉妹(父は9人兄弟だった)が100kmくらい離れた父の出身地からやってきて、狭い六畳二間の団地の中で親族会議が開かれた。結局、父は出身地の病院まで運ばれて入院した。

それから一ヶ月くらいたった頃、脳の血管の手術を受けることになった。父は子どもの頃に栄養を取れなかったため頭の血管が細くなっており、過労やストレスで破裂しやすいのだと後から聞いた。

父が入院してからも自営の牛乳配達は続ける必要があったから、母の20才上の姉さんが遠くからやってきて、住み込みで配達を手伝ってくれた。僕たち兄弟も洗濯や掃除、ときには料理もやった。母とおばさんが寝ないで働いているのだから、僕たち兄弟も手伝えることは何でもやった。

結局、父は手術が成功し半年くらい経ってから家に戻ってきた。父の側頭部には野球の硬球のような派手な縫い目が生々しくあった。病気をする前の父は一緒に遊んでくれる優しい人だったが、手術をしてから頭が痛むのか、少しのことでイライラして僕たちを叱った。

ある日、僕は父にかまって欲しくて(何しろ小学二年生だ)大きな声を出していた。それが父の怒りを呼び、大きな声で怒鳴りつけられた。それがショックで僕は暗くなってからも外を歩き回って帰らなかった。さすがに心配になった母と一緒に父も僕を探して歩いてくれた。後から母に「お父さんは体がまだ悪いんだからあんまり心配かけるんじゃないよ」と叱られた。

それから父は仕事に復活し、病気の原因にもなった雀荘通いを再開させた。麻雀が大好きで寝ないで仕事と麻雀ばかりやっていたらしい。

病気をしてからの父は気難しい性格に変わり、小学生だった僕たち兄弟をよくささいなことで怒鳴りつけた。だから僕は父が大嫌いだった。会話はほとんどなかった。こんなヤツ、金だけ寄越してあとは家にいなければいいのにとずっと思っていた。テレビドラマで父と子どもが仲良くしているシーンが全く理解できなかった。

そういう日々が6年くらい続いて、僕が中学2年生になった頃にまた父が倒れて入院した。今度は手術はやらなかったが、数ヶ月近くの病院に入院した。

僕はその頃、部活が楽しくて充実した中学生活を送っていたので、父が入院したと聞いたときのショックは大きかった。またあの小学2年生の頃のような生活が始まるのかと目の前が真っ暗になった。父が入院してから僕たちの生活は一変した。

また母の20才年上の姉さんが遠くからやってきてくれて配達を手伝ってくれた。でも全部は周りきれないということで、僕と兄が朝、自転車で配達をやった。それが数ヶ月続いた。

それまで僕は中学校のクラスでよく軽口を叩く明るい性格だったのだが、それからは影のある口数の少ない少年になった。先生から「何かあったのか」とよく訊かれた。また「すごく落ち着いているね」とよく言われるようになり、それが大人になってからも続いたのだが、それはこの中2の頃の父の病気がきっかけである。楽しい日々がある日を境に一変し、子どもが日々の生活の重みを感じるようになったのだから無理もないと思う。

ある日、僕が学校から帰ると退院したばかりの父がいて「よお」と右手を上げて挨拶をした。それからしばらくして父はまた仕事に復帰した。それからは特に父の体調が気になった。父が倒れたら僕たちの生活が立ち行かなくなるのだから当然である。でも父は好きなように雀荘に通って体に負担をかけていた。今から思えば、無責任としか言いようがないが、僕たち家族にはどうしようもないことだったから放っておくしかなかった。

結局、父は54才で、頭の血管ではなく癌で亡くなった。僕が22才の頃だった。僕はよく病室に付添にいって父のしみだらけの手を握った。一緒に病院の屋上にいって、家のある方角を二人で見つめた。あの初夏のまぶしい日差しと父の痩せた体を今でもよく思い出す。