雑文

思いついたことを

押入れの中のアルバム

今から3年くらい前のこと。母が認知症にかかっていることがわかった。その数ヶ月前からどこかおかしいと思うことが多くなり、兄が母を病院につれていった。そしてテストを受けて脳のMRIを撮って正式に認知症と診断された。

母はやたらとお金の心配をして財布を押入れに隠した。しかし、どこに隠したか忘れてしまい、「財布がない」と家族に訴えてあちこち探し回っていた。長いときは3時間くらいも押し入れを念入りに探していた。

「お母さんがボケた」ということで、都会に住む僕も数日、実家に帰り、何ができるというわけではないが、母といろいろ話をした。そんな中でまた母が財布がないと騒いだので、仕方なく僕は押入れの物をたくさん取り出して、母の代わりに財布を探した。

服やら布団やらをかき分けているうちに、いかにも古い表紙が布張りのアルバムを見つけた。どうしてアルバムが押入れの奥に仕舞われているのかと訝しく思いつつ、開いてみると母の若い頃の白黒の写真がたくさん貼られていた。中学や高校生の頃のものや就職してからの会社で撮ったもの、同僚と行った旅行先で撮ったものなどたくさんあった。どれも僕が生まれて初めて見る写真だった。

そういえば母が若い頃の写真は見たことがなかった。母は戦前の生まれだし、家が貧乏だったから写真を撮ることはなかったのだろうとなんとなく思っていたが、実はそんなことはなかったのだ。

僕は唖然としながら「どうしてこれまで写真を隠してたの?」と訊くと、「なんだか恥ずかしくてね」とちょっと照れた顔で母は答えた。

今は圧迫骨折で背中が曲がった老女だが、母にも若い頃はあったのだ。特に女子高生の頃は息子の僕が見てもわりとキレイ目な感じの少女だった。僕が知ってる母はいつも家事と仕事に追われてる忙しい大人だが、母にも将来を夢見る若い時代があったことになんだか感動した。

f:id:m518994:20220114234608j:plain

左が母

母の実家は貧しい農家で一番上の兄は馬引きをやっていたという。当時は車が貴重品だったから馬で荷物を運んでいたのだ。幼い頃から農作業を手伝わされていた母は、結婚するなら百姓だけは嫌だと強く思っていたという。

9人兄弟で高校に行けたのは勉強ができた兄と末っ子の母だけだった。上の兄弟姉妹たちがお金を出して高校に行かせてくれた。同級生の大半は中卒で働いていたから、高校に行けたのが嬉しくて自慢で仕方なかったらしい。1950年代の日本はまだまだかなり貧しかったのだ。

母は24才くらいで同郷の父とお見合い結婚をした。角隠しをかぶった若々しい花嫁姿の母と紋付袴姿の父の写真が何枚もアルバムにあった。その後、母は田舎から父が住んでいた東京の板橋に引っ越した。本当に何もない田舎から大都会に引っ越して大変だったんじゃないかと僕が訊くと、風呂もない狭いアパートに二人で住んで、銭湯に通って楽しかったという。方言を丸出しでしゃべっていたら、同じアパートの人によく真似されたと笑った。その後、数年して両親は東京から現在も住む地方に移り住んだ。

 

それまで押入れの奥に隠されていたアルバムは、今は僕たちのアルバムと一緒に棚に並んで仕舞われている。お金が盗られてるのではないかと不安で財布を探してばかりいた母だが、今は認知症の薬がうまく効いたのか妄想もなく落ち着いている。

もしも、財布がないと騒ぐことがなかったら、母が死ぬまで僕はそのアルバムの存在を知ることはなかっただろう。結婚前の若い頃のことを聞く機会はなかったはずだ。当時、何を思って暮らしていたのか、母の口から直接聞けたことは僕にとっては小さくない出来事だった。だから母が認知症になったことは必ずしも悪いことばかりではなかったのだ。