雑文

思いついたことを

牛乳屋の息子

僕の実家は牛乳配達を家業としていた。僕が生まれる頃に父が独りでバイクで配達することから始めて、最後は母が独りで軽トラで配達していた。全部で40年以上、続けたことになる。

僕の生まれてから最初の記憶は、4才頃のこと。夜中に目覚めてみると母がいない。母は台車みたいなものに牛乳を積んで近所を配達していた。だから僕は母を探して朝方の4時、5時頃に泣きながら母を探して歩いた。幼児だから近所に迷惑がかからないように配慮などできるわけもなく、大きな声で泣きながら歩いた。偶然、母が僕を見つけて一緒に家に帰ったこともあるし、近所のおじさん、おばさんが出てきて僕を家まで連れて行ってくれたことも何回もあった。

僕たち兄弟は物心がつく前から父親の車に乗って一緒に牛乳配達をした。「あそこの家に2本入れて来てくれ」と父から指示を受け、空き瓶を持って車に戻る。意味はよくわからなかったが、親の役に立っているのがうれしかった。

その後、母も車の免許を取得し、両親は別々に配達をするようになった。僕たち兄弟は早く学校から帰ってきたり、休みのときはよく牛乳配達についていった。中学、高校のときは夏や冬の休みのときに部活帰りによく行った。東京の大学に進学してからは、帰省のたびに必ず牛乳配達をした。配達こそが我が家のアイデンティティだった。

僕が大学3年生のとき、父が亡くなり、それからは母独りで牛乳配達をすることになった。同居していた弟が自分の仕事の合間によく手伝った。

80年代後半からはスーパーの安売りのために割高な配達料込みの我が家の牛乳は客を少しずつ失っていった。母は少しでも売上を取り戻そうと、新築の家ができると「牛乳をどうですか?」と営業に行き、あっさり断られてショックを受けていた。

その頃は僕たち兄弟は全員、大学を出てそれぞれ独立していたから、お金的にはそれでも問題はなかった。

今から10年くらい前の母が70才になった頃、家を建て直すことになり、それまで牛乳配達仕様の家を壊すことになった。母はまだ配達はできたのだが、もう潮時だった。

我が家が牛乳屋をやめることに決まってから僕は配達中のビデオを撮った。今でも時々、そのビデオを見ることがある。牛乳瓶がカチャカチャなる音、田んぼや竹やぶの子供の頃から見慣れた景色、40十年も牛乳を取り続けてくれたお得意さんの家、木製の牛乳箱の蓋が閉まる優しい音。そういう思い出がとても愛おしい。