雑文

思いついたことを

手紙の思い出

先日、郵便局にいったら窓口に寒中見舞いを出しませんか?という宣伝チラシがあった。年賀状とか暑中見舞いなら見聞きするけれど、寒中見舞いのハガキは出したことももらったこともない。まぁ、ネットの普及で年賀状が減っているので、郵便局としては理由はなんでもいいからハガキを出して欲しいということなのだろう。

ハガキといえば、僕はバックパッカー時代によく旅先から絵葉書を出した。今はインターネットの時代だから外国からも簡単に連絡ができるが、当時は郵便とバカ高い国際電話しか連絡手段がなかった。特に夜は宿でやることがあまりないし、なんとなく人恋しくなるので、日本にいる友だちに宛てて現状を報告するのが慰めになった。

数年前に実家に帰ったときに母がとっておいてくれた僕が出した絵葉書を見返してみた。メキシコや韓国、インド、シリア、アイルランドなどいろいろなところから出していた。ハガキを書いていた当時のことは全く思い出せないが、文面からなんとなく孤独感が漂っている気がした。ハガキの汚れ具合やエキゾチックな切手に押された消印がビンテージな味わいになっている。

また僕はかつてはよく文通をした。相手は海外に留学した友達や数回会っただけの人、または一度も会ったことのない人もいた。仕事から帰ってきてポストに文通相手から封筒が入っていると嬉しくてわくわくしながら開封した。

手紙の最大の良さは紙として残ることだろうと思う。そして筆跡やインク、経年劣化で古くなった味わい。もらった手紙は、読み返すことはほとんど無いが、どれもちゃんと保管している。

しかし、今はインターネットの普及によってSNSで瞬時にテキストや画像、動画、音声を送受信できる。わざわざ手間暇とお金をかけて手紙を送る理由がない。僕は数年前に友人に文通をやらないかと誘ってみたことがあるが、あっさりと断られた。今どき、わざわざ文通をするなんて余程の好事家だろうから、断られて当然である。

僕は年賀状が好きでないので(みんな「元気ですか?」みたいなことしか書かないから)、今では私的なハガキ・手紙を出すことはまったくなくなってしまった。一度、便利さを体験してしまうともう戻れないのは誰しも同じだ。

19世紀のフランス小説なんかを読んでいると、人々はせっせと一日に何通も手紙を書いて従者が届けていた。日本でも人々はしばらく会わない友人にはよくハガキを出していた。内容はなんでもない日常の出来事である。

21世紀の今、そういう伝統が途絶えてしまったことは寂しい気もする。僕が保管している茶色く変色したハガキや手紙も僕が死んだらおそらくみんな燃やされてしまうだろう。これも時代の流れと受け入れるしかないのだろう。残念ながら。