雑文

思いついたことを

大学受験の迷走

僕は大学に進学した。家は田舎(郡部)にある牛乳屋。父親は中卒で母親は高卒だが、母親はローマ字のアルファベットをabcまでしか言えない。d以降は知らない。どうしてそれで高校が卒業できたのか理解不能なレベルである。

また家には大人が読むような本は1冊(鈴木紀夫「大放浪―小野田少尉発見の旅」)しかなく、両親が本を読んでいる姿は一度も見たことがない。子ども向けの百科事典や「小学*年生」みたいな雑誌はあったが、いわゆる文化資本はかなり貧困だった。

しかし、僕たち3人兄弟は全員大学に進学した。兄は旧帝大、僕は都心の偏差値60の私立、弟は地方の国立大を卒業した。当時、僕たちにとって大学に進学するのは当たり前だったのだが、よく考えてみたら、この境遇でよくぞそれなりの大学に進学できたものだと思う。

そんな中、どうしてそれが可能だったのか考えてみると、兄が小学校一年の頃からクラスでトップの成績を取っていて、暇さえあれば本を読むか勉強するかしていたのが大きい。親は特に教育に熱心でもなんでもなかった。

僕は兄と違って小学校から高校までずーっと偏差値50くらい。僕がいた高校の大学進学率は3割くらいだったが、兄貴に負けたくなくて高校3年生から勉強を頑張った。要するにコンプレックスをバネにした。予備校に行くお金なんてなかったからZ会の通信添削をやった。数回、成績優秀でランキングに載ったことがあり、そのときに僕がいたダメ高校の名前が有名進学校と並んでいるのが誇らしかった。

今はもう50歳を過ぎてしまったので、10代の頃の生々しい劣等感や同級生たちへの敵愾心みたいなものは大方忘れてしまった。でも、当時は大学に進学できなかったら死んでも死にきれないと思っていたのはよく覚えている。2年でも3年でも浪人して進学するつもりだった。

結局、一年間自宅で浪人生活を送り、3つの学部を受験し、第一志望には落ちたものの残りの2つには合格することができた。親は喜んだし、卒業した高校に報告にいくと先生はすごく褒めてくれた。

では、それで僕が喜びいっぱいだったかというと、実はそんなことは全くなかった。一つには受験勉強のために精神的に疲労しきっていたこと、またもう一つは僕が選んだ進学先は夜間の二部だったためである。

第一志望のW大昼間部はあっさり落ちた。その前に受験していた京都のR大学には合格した。残ったW大二部は夜間なので、一度はR大に行くことに決めようかと思い、高校の先輩にW大は受験しないつもりだと言うと「一応、受けとけよ」と言われ、せっかくだからと思って受験して合格した。

R大は好きな京都にあるが、環境があまり良いとは思えなかったのと、東京への憧れ、そしてW大のブランドに惹かれて、合格通知が届くとあっさりW大に進学することに決めた。あの時、先輩の言葉がなかったら僕はR大に行っていた。

しかし・・・実際に上京してごちゃごちゃした東京の街に住んでみると、田舎出身の僕にはハードだった。とても馴染めるものではなかった。また、W大のブランドを求めて二部に入ったという罪悪感みたいなものに悩まされ、大学生活にはなかなか馴染めなかった。

それで翌年、一度は合格したR大を再受験した。でも、ほとんど受験勉強はしていなかったから受かるはずもなく、本当にグダグダで自分でも何をやっているのかわからない迷走状態だった。

それでW大夜間の生活が続くわけだが、2年時には希望したコースに行けなかったこともあり、ほとんど学校に行かず、東京のアパートを引き払って実家に帰り、土方のアルバイトをした。

それで・・・確かその翌年もR大を受験したような気がする。多分したはずだ。何しろアルバイトに明け暮れ、ほぼまったく受験勉強をしていなかったこともあり、記憶がはっきりしないのだ。一浪のときには「大学に進学できなかったら死んでも死にきれない」という熱い思いだったのが、さすがに3年連続で受験すると、「いつまで受験しなければならないのか??」と悪夢にうなされる思いだった。

2年めはW大にほぼ行くことはなく、再受験にも失敗。もう大学生活は諦めて実家に定着しようかとも思ったけれども、せっかくあれだけ苦しい想いをして大学に入ったのだからと、もう一度頑張ってみることにした。下宿を都心に近いゴミゴミした街から郊外のゆったりしたところに変え、僕は新しい生活を始めた。